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第33話
台所から上がった小さな悲鳴を聞いて、炬燵を出る。ガラリと開けた戸の先の冷たい空気を吸い込むと、ふと我に返ったような気分になり、自分の行動が半ば無意識だったことに気付く。柄にもなくと言うべきか、どうも焦ったらしい。視界に異常な光景はなく、それを確認してからわざわざ平静を装って声をかける自分がいる。
「どうした?」
コンロの前に立っていた日夏はそろりと振り向き、消え入るような声で呟いた。
「砂糖と塩、間違えちゃって……」
「そんなことか」
思わず言ってから、日夏が傷つく素振りを見せる前にその可能性に気付く。挙げた片手で表明したかったのは謝罪か弁解か、ごまかすように丈は顎を撫でた。
「いや、手でも切ったのかと思ってね」
「すみません」
日夏は気恥ずかしそうに俯いて、肩を落とす。彼と自分では、この種類の感受性に絶大な隔たりがあるのはわかっている。内心苦笑しながら手元を覗き込んでみるが、ボウルの中は一見すると普通の溶き卵だ。ただし、日夏の手にあるのは見紛うことなく青い蓋のタッパーで、それが示す唯一の事実は中に塩が入っているということである。本来取り出すべきだったのだろう赤い蓋のタッパーは、調味料棚の中に納まったままだ。
「だし巻きか?」
「ううん。普通の卵焼きにしようと思って、醤油と砂糖であまじょっぱくして。なのに、大さじいっぱい塩入れちゃって」
「なんとかならないもんなのか?ほら、この前の煮物みたいに」
「煮物なら洗えば挽回できるけど、卵焼きはどうしよもないです……」
言いながら、みるみるしゅんとしていく。
「俺、駄目ですね」
「なんだよ、急に」
「最近、こんなことばっかで」
「そうか?」
言いたいことはなんとなく察しが付く。これはとぼけているわけでなく、彼の自己否定を否定するためのものだ。
「俺は安心してるくらいだぜ。お前でも、俺みたいな失敗することがあるんだな」
「でも」
食い下がって落ち込む様子に、ついに堪えきれず笑い、丈は日夏の華奢な背中を撫でた。
「まあ、食えないもんがないのが俺の取り柄だ」
煮物の味付けを失敗した時も、相当に落ち込んでいた。丈にしてみれば、一度味付けに失敗しても、文字通り水に流すというか水洗いしてまた味付けし直せば何事もなかったように蘇ることに驚くばかりで、客の前に出す頃にはいつも通り東雲にはもったいない一品になっていたのだから、何ら問題はなかったのだが。
問題はないにしろ、このところ日夏は確かに、少し調子が悪い。いや、様子がおかしいと言ったほうが正しいだろう。「忘れ物」を取りに戻った分だけ仕込みが遅れたとはいえ、馴染の不動産屋の忘年会は、煮物の味付けを密かに失敗したという裏事情を除けばつつがなく終わった。その他にしても、注文を聞き取り間違えてよそった大根など鍋に返してしまえば済むし、皿を一枚欠いたところで故人のコレクションは簡単には底を突かないしと、どれも他愛ないものばかりだ。今の状況も、せいぜい、塩のかたまりに近いであろう卵焼きを出された場合に白々しくうまそうに食べるべきかどうか丈を悩ませている、というくらい。
もっとも、答えはあっさり出ているのだが。作り直しを提案すべく眼下のボウルから日夏へ目線を移すと、いつからだろう、見上げてくる黒い瞳と目が合った――と思った次の瞬間には、ふっと逸らされる。
「ん?」
白い耳に、じんわりと朱が差して広がっていく。それから、頬へ。
「……すみません」
同じ消え入るような声でも、今は先程とは色が違う。
放っておけば首まで赤く染まっていくことも、ここ数日の経験から知っている。
「日夏」
「うん」
「何考えてた?」
さて、我ながら趣味の悪い質問かもしれない。しかし、何度揶揄っても揶揄い甲斐のある日夏という存在は、罪作りですらあると思う。
予想を裏切らず丈の腕の中でもじもじと身体を縮め、日夏はいっそう頬を赤らめる。その様子を見て悦に入っているとしかし、思わぬ逆襲に遭うことになった。
「あの」
「うん?」
「丈さん、かっこいいなって……思ってて」
問い掛けに答えただけのことを、まさか叱ることはできまい。
面食らった一瞬のあと、取り繕うべき表情をしばし探してみたものの見つからず、丈は笑いながら日夏に屈み込んだ。
「――そりゃ、男冥利に尽きるよ」
あばたもえくぼと言うが、どちらであれもう観察できるような距離ではない。日夏の頬を撫でて角度を促すと、唇が触れ合う。少し重ねてから離すと、今度は隠さずに潤んだ瞳を向けてくるので、呆れ半分に耳元に揶揄を吹き込んでやる。
「朝飯より俺にするか?」
びくりと肩を震わせた日夏は、次に両手で顔を覆い、さらにピンで留めた前髪をしきりにいじりながら、弱々しく首を振るのだった。
「ご飯、にします……」
度し難い自意識過剰に陥っているのかもしれないが、そうでなければ、日夏の調子を狂わせているのは自分だ。
たとえば今しがたの口付け一つ、言葉一つを思い出して、彼はまた上の空になったり手元を狂わせたりするのだろうと思う。特別強烈な感覚を味わわせてやったおぼえはまだなく、また、まだ味わったおぼえもなく、ただ戯れに触れたり、時に言葉で仕掛ける程度の現実が嘘のようだ。物慣れない様は好もしくもやはり罪であり、度が過ぎれば凶器にもなると、揶揄に紛らわせた残り半分の火をもみ消しながら奇妙にしみじみと感じることが多い日々だった
「今のはだいぶ、おっさんの発言だったな」
明後日に向かってうそぶくと、やや遅れて、くすくすと笑う気配が伝わってくる。
冷え冷えとした薄暗い台所が、ほのかに明るくなったような気がする。単なる気のせいではなく、もう少し性質の悪いものであることにも、もちろん気付いている。そんな幻覚を見るくらいには、丈もまた日夏に調子を狂わされていた。
テーブルの上に、彩り豊かな朝餉が並ぶ。
鯵の干物、ツナ入りの卵焼き、ほうれん草のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁、それに白米。
「豪勢だな」
「そんなこと」
本心からの感想は、あっさりと否定される。彼にとって、腕を奮ったとは言い難いのだろう。それでも、日夏が住むようになってから劇的に向上した食生活だが、今までこれほどの種類の器がこのテーブルに並んだことがあったろうか。行儀良く手を合わせてから箸を取った日夏は、やはり行儀よく、味噌汁を啜った。作り直した卵焼きには、ツナの他に長ネギのみじん切りも入っているようで、噛むたびに味わいがある。魚の干物も、店の定番メニューであるホッケ以外を食べるのは久しぶりだった。
「うまいよ」
はにかんで笑った日夏が、白米を運ぶ手を止めて言う。
「あの、明日は洋食にしてもいいですか?」
「好きにしてくれ」
「うん」
嬉しそうに頷くものではない、と、思わず眉をしかめてしまう。交わした言葉の不平等性に、少しくらいは思い至らないのだろうか。
「なにも、毎日作る必要はないんだぞ」
「……迷惑、ですか?」
途端に不安そうな顔をするから、こちらのしかめ面も続かない。
「俺の世話は義務じゃないってことだよ。せっかくの休暇なんだから、ゆっくりしろ」
日夏は驚いたように目を瞬いて、それから、恥ずかしそうに言った。
「休みじゃないと、こんなことできないし……その、好きでやってるから」
「そうか」
「うん」
会社勤めの客を主に相手にしている東雲では、盆と正月の休みを長めに取ることにしている。無理に営業しても、どうせ閑古鳥が鳴くことは目に見えているのだ。下ろした店のシャッターにも、日夏の筆による休業の貼り紙を貼ってある。休暇とは少なくとも自分にとって、いつもより健康で健全な生活を送るためにあるものではなかったが、自分と違って性根の良い彼だ。好きなことをやっているのだと言われてしまえば、怠惰を強制することもできない。
「けどな、ちゃんと休めよ。店主命令だ」
「はい」
「あんまり働くようなら、邪魔するからな」
「どうやって、ですか?」
「簡単だ。俺がごろごろしてるだけで、じゅうぶん邪魔だろ」
「そうかな」
「それで駄目なら、お前を巻き添えにしてごろごろする」
日夏は一度小さく吹き出してから、ちらりと上目遣いに丈を見ると、肩を揺らして笑い出した。
暦に従ってこの国で暮らす以上、大掃除は年末に行うのが風習だ。起源を遡ればきっと千年どころではない部類の行事なのだろうし、そこに建設的、非建設的という概念を持ち込んでもそれこそ非建設的だとも思う。きれいな家で新年を迎えたいという精神論はわからなくもないが、わざわざ寒い時期に凍えながら掃除をやる必要はない、という持論が変わることもない。ただし、暖かいうちに一度でも腰を据えて家の中を磨いたことがあるかと問われれば否で、未来においてその予定があるかどうかはもはや問われることすらなかった。真剣に掃除をする日夏に向かって口だけ出して傍観を決め込むことができたら、堂々と冷血漢を名乗れたかもしれない。
とはいえ、拝命したいくつかの力仕事を終わらせればむしろ邪魔になるのが当然で、いざ有言実行の機会が訪れてみると、大人しく帳簿の整理でもするか、それが終われば煙草を口実に外に出掛けることになるのだと実感する大晦日だった。
「お帰りなさい」
「掃除は終わったのか?」
「今さっき。あ、寒いですよね、窓閉めますね」
「お前のほうが寒いだろ」
異常気象だの大寒波だの聞き飽きたが、事実、今日も身を切るような寒さだ。それでも少しばかり外をうろつけば、多少は身体が温まる。
「俺も動いてたから」
そう言う日夏の指先は真っ赤で、見る者の同情を誘う。丈は小さな頭を小突き、居間に踏み入れた。分解した炬燵も既に元通りに戻り、見た目に変化はないが、掃除機や雑巾がかけられた部屋は清々しく、夕暮れの冷たい風が流れ込んでいる。窓を閉めると、隣の部屋からもカラカラと同じように窓を閉める音がした。
「晩飯、鍋でいいか?」
「水炊きですよね」
「牛肉もあったろ。すき焼きにするか?」
「丈さんが食べたいほうでいいです」
「そうか。じゃあ、座ってろ」
襖の向こうから顔を出した日夏に、手振りで炬燵を示す。
「え?」
「野菜くらい俺にだって切れる」
「でも」
「味付けは頼むからな」
「あ、うん」
「だから、それまで座ってこれでも食ってろ」
ぶら下げていたビニール袋を漁る。
取り出したのはマルボロではなく、クリームの乗ったプリン。特に彼の気に入りかどうかはわからなかったが、こんなもので労をねぎらおうなどという浅はかな魂胆だ。日夏はそのコンビニデザートを大事そうに両手で受け取ると、嬉しそうに頷いた。
今年は割高な白菜も、水炊きには欠かせない。惜しまずにざく切りにし、葉物は他に水菜も使う。安価なきのこ類はたっぷりと。長ネギとにんじんも適当に切り、冷凍庫から手羽元を出す。湯通しのためたっぷり水を入れた鍋を火にかけると、コンロの音を聞きつけたのか、日夏が顔を出した。
「まだだぞ」
「うん、でも……あ、昆布の出汁、取ってますか?」
「取ってないな」
くすりと笑って土鍋の蓋を開けようとするので、片手で阻止する。
「まだだって言ったろ」
土鍋に昆布を敷いて水を張るのは、野菜を切るより簡単な作業だ。
「でも」
「なんだよ」
不興を買ったと思ったのかもしれない、窺うように顔を上げた日夏だが、丈の苦笑を見ると、今度はぱっと俯いて呟く。
「……こっちにいたい、から」
「物好きだな」
「そう、かな」
「寒いだろ」
「そう……だけど」
「一服したいな。そっちに行こう」
揶揄われていたことにやっと気付いたらしく、ほんのり赤面する。丈は喉の奥で笑い、その背中を叩いた。
エアコンの静かな稼働音と、同じく静かなテレビの音。炬燵に潜る丈の後ろでまごついたように立っていた日夏は、やがて、ぴったりと腕が触れ合うほどの真横に潜ってくる。丈は片腕で日夏の肩を抱き、空いた手で煙草に火を付けた。ゆっくりと吹かしてから吐き出した煙は、ぼんやりと広がり、その内に消える。
腕の中の日夏に視線を落とせば、はにかんだように笑い返して、ほんの少し寄りかかってきたのかもしれない。羽根のように軽く、ガラス細工のように触れる者を慎重にさせる身体。
試したり試されたりするのは、正直、面倒だ。例えば今、日夏がもう少し体重を預けてくれば、炬燵布団を握り締めた手を丈の腿に置けば――そういうもどかしさを感じないと言えば嘘になる。食うのはあくまで据え膳だ、など、威張ることではない。据え膳しか食ったことがないだけなのだろうなと、不意に可笑しくなる。本当に嫌なら抵抗するはずだとか、そういう犯罪者の思想はあいにく持ち合わせていなかった。
「知っての通り、俺はがさつだし無神経だからな」
柔らかな髪の感触が顎の下をくすぐる。身じろぐ日夏の髪を撫で、丈はさらにその身体を抱き寄せる。
「お前みたいに奥ゆかしいやつには難しいかもしれないが、嫌なら嫌、その逆ならその逆だと、わかるように言ってくれ」
明後日の方向に煙を吐き、向き直ると、二つの大きな瞳が揺らいでいた。
「……丈さんは、優しいです」
「何度も言われると、段々、もしかしてそうなんじゃないかって思えてくるな」
日夏の手が、そろりと丈の腕に添えられる。丈は火を付けたばかりの煙草を、灰皿に押し付けた。
「そうなりたいとは思うよ、お前に対しては」
「そんなの……」
言いさした彼は思い出したようだ。口付けの時には、目くらい閉じてほしいという丈の言葉を。伏せられる目蓋、震える睫毛に口付け、それから唇に触れる。
おずおずと、しかし確かに応えながら日夏の両腕が首に回されるのを待って、華奢な身体を押し倒す。空のプリンのカップが転がったかもしれない。背中を庇いながら床に横たえると、堪らず開けたのだろう目と目が合った。
「こうなっちまえば、わかんねーな」
陰になってしまえば見つけるほうが難しいと、目尻の消えかけの痣をなぞる。再びうっとりと目を瞑った日夏に覆いかぶさろうかという瞬間に、チャイムが鳴った。狼狽える日夏を宥め、顔を上げる。
「宅配か?」
それ以外ではまず聞くことのない音だ。胡乱な気分を逆撫でするように、さらに二度、三度、と調子はずれの古い機械音が響く。そして――
「丈さーん」
間延びした、男の声。
「おーい、丈さんってばー」
「エディさん、ですね……」
泣き笑いのような表情で日夏が呟き、丈は盛大にため息を吐いて立ち上がった。
台所では、すっかり沸騰した鍋がコンロの上でしきりに蓋を震わせている。火を止めて、サンダルにつま先を突っ込む頃には、チャイムではなく直接ノックに変わっている。手段は来客のそれではなく、借金取りか何かだ。
「いるのはわかってるよー!電気付いてるし、換気扇回ってるのも見えてるからね!」
「うるせーな、近所迷惑だろうが」
怒鳴り返した自分の声は、我ながら不機嫌なものだった。
「じゃあ開けてよ」
相手はついに、ドアノブをガチャガチャと回し始める。
「ついでにうちの迷惑でもあるから、帰れ」
チェーンも下ろしてやろうという丈の気持ちが通じたように、エディが食い下がる。
「カニ!カニ持ってきたから!開けて!――もー、あっちゃんも何か言ってよ」
「酒も持ってきました」
こちらとしても疑わなかったが、やはり二人で連れ立ってやって来たらしい。
「どうする?」
振り返ると、まだ少し頬の赤い日夏が、小首を傾げて笑っていた。
「今晩はカニ鍋ですね」
「悪くねーな」
ガチャリ。
「さっぶい!もー、なんですぐ開けてくれないの?」
「お前の胸に聞け」
「丈さんの冷たい態度に凍えて反応がない」
「カニだけ置いて帰れ」
「嘘です急に来てごめんなさい」
「お邪魔します。すいません、エディが東雲家に突撃するって言って聞かなくて」
「真剣に止めたとは思えねーがな」
「――あの、でも」
喧騒に近い会話にそっと割って入る遠慮がちな声を、しかしこの場の誰も無視できない。三対の視線を集めた彼は、はにかんだ顔で言うのだった。
「みんなで年越しできるなんて、嬉しいです」
「ひなっちゃん……!」
「天使……!」
「いいからとっとと入れ」
丈は日夏を抱きしめる二人の男を引き剥がし、手荷物を奪い、居間に追いやる。
「ったく」
「びっくりしましたね」
すっかり気の抜けた様子の日夏を見て、ああずいぶん緊張させていたのだなと知る。つられて口元が綻んでいくのを感じながら、何気ないふりで屈み込み、日夏の頬から口付けを掠め取る。目を丸くして頬を押さえた日夏は、それから、その純情な仕草のまま蕩けるような笑みをこぼすので、丈は堪らずに天井を仰いだ。
「お前には叶わないよ」
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