5 / 44

逢瀬 2

 エッセイの入稿が終わり一息ついたあと、食事を兼ねて編集と飲むことになった。  ジョッキを傾けながら、次回作の構想を話し編集の反応をみる。その気がなさそうな振りをしているが、何度も唇をそっと舐める仕草で喰いついているのがわかる。この男は好みではないからいいものの、こうも人の顔の真ん前で唇を舐めるのはどうかと思う。  いつか指摘してやりたいが、自分でも気が付いていない癖を教えられて楽しい人間はいないだろう。  あくまでも仕事上の付き合いだし、この男の癖がいささか恥ずかしいものであっても自分には影響がない。そんな他愛のないことを考えていた時、店内に大きな怒鳴り声が響いた。  酔っ払いか?眉をひそめ後ろのカウンター席を振り返ると、男が店員に大きな声で文句を言っている様子が見えた。その男から4つばかり離れた席に一人で座っている男が静かに言った。 「大きい声だすような店じゃないでしょう、ここ」 「うるせえ!不味いという文句は店のためになるだろうが!言ったほうがこいつらの為なんだよ!」 「大の大人がみっともない」  ピシャと言い放ち静かに男は立ち上がった。僅かに滲むイントネーションは北海道のものではなかった。北海道の言葉は標準語と変わらないと思われがちだが、方言もあるし何より語尾が少し重い。聞き慣れない西側のイントネーションは耳に残りやすい。  難癖をつけられたらしい店員が頭をさげている。「もうこの店は出よう」そう編集に耳打ちすると、軽く頷いてチェックに向かった。周囲の客もソワソワとしており同じ考えだと解る。 北の人間は無口だと相場が決まっているから、店の中で怒鳴る現場に立ち会うことはそうそうないのだ。こういう殺伐とした雰囲気に馴れがない。 「すいません!東さん。もう帰りましょう!ね」  トイレから戻ったらしい連れの男がクダを巻いている男を椅子から引っ張り上げた。チェックを済ませていたらしいもう一人の男が慌てて駆けつけ、両側からがっちりホールドしてカウンターから引きずりだす。  グダグダ言う男が出入口に消えていくと店内のざわついた雰囲気が少しだけ落ち着いた。 「皆さん、すいません。ご迷惑をおかけしました!」  連れの男がそう言って頭を下げた後、酔っ払いを諌めた男に近寄って謝りはじめた。 「いえいえ、店員さんが可哀想で。トイレに連れて行こうかと立っただけです。事を大きくする気はありませんでしたから」 「すいません、あの人酒に飲まれると性質が悪くて」 「じゃあ、尚更一人にしちゃいけませんよ」 「申し訳ありませんでした」  そのやりとりを聞きながら、自分だったらどうしただろうかと考えた。理不尽な事を言われている店員を見て視ぬふりができただろうか……無理だろう。サービスを受ける場において「金を払っているのはコッチだ」と言わんばかりの態度は実に気に入らない。飲食店やタクシーに乗って横柄な態度をとる人間、飛行機のスーパーシートで客室乗務員を顎で使うような男。ああいう輩には絶滅してもらいたい。 「気にせず、そうぞお帰りください」  頭を下げ続けるサラリーマンの背中を押し、帰るように促した後、男はそのままカウンターの席についた。見たところ一人、そしてさっきほんの短い間、俺達の目が合った。そこには素通りできないものがしっかり存在していたし、どうやら我儘を許せない気質も共通点らしい。  チェックを終えて戻ってきた編集には用ができたと告げて先に帰らせる。俺は当たり前のようにカウンターの男の隣に座った。 「ビールを奢ります」  男は驚きもせず俺の顔を見た。人懐っこい笑顔を浮かべながら。俺はわざと相手のパーソナルスペースに踏み込む距離に乗り出す――紙ナプキンに手を伸ばす振りをして。  男は動かなかったし、身体に緊張が走ることもなかった。俺の指先をじっと見つめている。どうやら、いけそうだ。  会話を弾ませ、程よく酔いが回った頃ホテルの部屋で飲みなおそうと誘われた。当然断る選択はない。単純に場所を変えて飲む誘いだとしても、きっかけには充分だ。  伊達に色々なタイプの男に関わって来たわけではない。俺のアプローチは的確で無駄がない。だからこそ伝わるし、その先に進みたいと思わせるのだ。  たとえ結婚して子供がいる男であっても。  俺にとってそれは障害にはならない。そんな程度では。

ともだちにシェアしよう!