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黙 /和泉莉緒
「なんだ、この香りは?」
男が近付けた鼻を鳴らし、眉を顰めた。
「あー、それ、は。ハンドクリームやと思う。」
「そんなもの、いつから使うようになった?」
眉が上がったのを見て、和泉は慌てた。
「ふ、冬になって…その、乾燥とか、あるし。」
言葉をゆっくり選び、嘘ではない程度で止めた。
柑橘の香りのハンドクリームは、そもそも息子が気に入って買ったものだ。
親子で使っているとは、この男には少し言いづらい。
それに。
実を言えば、始めたのは、手肌のケアばかりではない。
それまで、さして気にもしていなかった髪や身なりにも、かなり気を付けるようになった。
最近、一番熱を入れているのは、腹周りをスッキリさせる体操だったり、する。
変わったとバレない程度に、ほんの少し。
そう装うことに細心の注意を払う。
でなければ、とんでもなく気恥ずかしいし。
それに、少々愛情表現が可笑しなこの男に一体何をされてしまうか、分からない。
良いにしろ、悪いにしろ
不用意に刺激することは、なるべく避けるべきだ。
それは和泉がこの男に身を以て学習させられた事だった。
―ヤバい。マズったか?
そう感じた瞬間、二の腕を掴まれていた。
「思わず、食べたくなるニオイだな。」
指と指の間。
舌先でスッとなぞられただけで、全身が震えた。
―嗚呼、求めている。
見詰めることも、出来ないほどに、狂おしくざわめいている…。
自覚して、思わず目を伏せた。
「和泉。」
「ん?」
男の目線の先に、楕円の鏡があった。
―また、かいな。
心底呆れたような顔を見せながら、己とは別の体温と香りに包まれて、安堵のため息を吐いた。
―大丈夫。
渇いているのは、お互い様だ。
このまま、受け入れればいい。
すべてを脱ぎ捨てて、甘えてしまえばいい。
―2人きりの今だけを、黙って覚えていれば
充分だ。
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