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滴 /和泉莉緒

「わっ!」 玄関を開けたら、頭に雫が落ちてきた。 ―なんや。結露か。 適当に拭いて、駅に向かう。 実家の一軒家とは違い、マンションは気密性が高い。 だから、冬でも室内は驚く程暖かい。 その代わり、窓にドアに、壁に、温度差が生まれる場所に結露する。 一度、子供がインフルエンザで寝込んだ時に、加湿器かけたら、壁がビッショリ濡れていて、それに触れた夜中に叫びそうなったことがあった。 『ホンマに何回拭いても、すっぐにまたビシャビシャになるねんで。そやからいうて、窓開けっぱにしたら、どんだけヒーターつけたかて、ウチん中が寒なってしまうやん?かなんわぁ。これ、本気でどないかならんかしらん?』 ―拭いても、拭いても、か。 何かを思わせるその言葉に、胸が苦しくなる。 落ちる滴は、集まって何処かへ流れ出て行くんかな。 それとも、其処へ留まり、しどとに濡らした何かを腐らせるんか…? 足元を見つめて考えた。 ―アホらし。 そんなん、今はどっちでもええやろ。 いつまでも湿っぽいこと考えてんと、除湿機買えや! 除・湿・機!! 男は首を振り、目前の信号を見据えた。 通りゃんせのメロディーが鳴り始めた中を駆けるようにして横断歩道を渡りきる。 ―行きはヨイヨイ、帰りはコワイ、か…。 朝っぱらから聴きたくもない事実を見せられたようで、一気に気が重くなる。 ―通ってしもたもんは、しゃあないやんか。 コワイなんてもんやないで。行きも戻りも出来ん、どん詰まりで待つしかない。 ―何を待つ? 終わりか、始まりか。それとも、慰め? ―ああ、止め、止め! とりとめもなく、少しのキッカケから考え込むことが増えた。 疲れたん?と労ってくる嫁にも、心は向かない。 元気ないね…息子に水を向けられても、悪いとは思うが、何も言えない。 自然と、口数も減った。 前よりもかなり愛想が無くなったと思うのに、なぜか、前よりよく話かけられるようになった。 キャリア志向の女だったり、1匹狼を気取る男だったり。 その時々だが、言外に誘われることも少なくない。 「今日はなんや知らん、子供が熱出しとるらしいんで…。」 取ってつけたような大阪弁を使い[子供]と言って出鼻を挫く。 前の男なら、しなかったことだ。 ―エエんか、悪いんか、ゆうたら、まあ、エエんやろけどなぁ…。 大阪弁に戻ると、何かが溢れそうになる。 たかが滴や。 冷たいのか、熱いのか。 自分がどうしたいのか? それすら、わからない。 もう少しの間だけ、わからないフリをしていたい。 そう願いながら、男は足早に華やかなショウウインドウの前を通り過ぎた。

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