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第3話 佐藤に武藤で、そしたら。

 人生はままならない。そして、予想がつかない。  まさか、自分が突然、専務、次期社長の右腕どころか、お嫁さんになる……なんて。 「あ! 佐藤君!」 「あー、おはよ」  ここのホテルの貸衣装スタッフで働いている女性アルバイトの知念(ちねん)さんが心配しそうに駆け寄ってきてくれた。もうきっと俺が移動っていうか昇進っていうか、ここを離れる話がされていたみたいだ。専務と結婚、っていうのは重役の中の一部分、専務に近い人間にしか知らされない。知念さん含め、先輩も、俺がただ普通に本社勤めになるだけって思っている。でも、本当のことを話してもきっと信じてもらえないだろうけど。 「あの、昨日やりかけだった仕事、私やっておいたから」 「あ、ごめん。助かる」 「ううんっ」  アルバイトの彼女にフォローしてもらってしまうくらい、おっちょこちょいで、仕事できますなんてことは自分から絶対に言えない俺が専務の右腕だよ? ありえなくない? 結婚もだけど、何もかも、無理がある気がする。 「頑張ってね!」 「あー……うん」  どうだろ。すぐに呆れて追い返されるのがオチな気がする。 「デザイン部志望だったもんね! あ、でも社長の右腕だなんて、デザイン部通り過ぎてジャンプアップが果てしないよ!」  喜ばせてしまってるけど、きっと、うん、すぐに戻ってくるよ。いやぁ、戻ってこられるのかな。クビってことはないだろうけど。 「とにかく頑張って! 夢の第一歩。あ、あと、さっき、執事? の方に言われて、荷物、まとめておいたよ」 「あ、うん」  第一歩になるのかな。もう急すぎるし、急じゃなくても、なんかありえなさすぎて無理すぎて、戸惑うばかりだ。そして、あらかじめまとめてもらった私物の入った紙袋を手渡される。たいして入ってないよ。まだ務めて一年ちょっとだし。私物の持込はあまりしないようにって言われてるし。それでも、もうここは自分の居場所じゃないと言われて、急にひとりで放り出されたような気持ちになって、不安が一気に膨らんだ。  手を振って頑張れって声援をくれるのに、まるで追い出されたような気が。 「あの女性とお付き合いしているんですか?」 「うひゃああああああ!」  背後から低くぼそりと囁かれて、し、心臓が口から飛び出るかと。っていうか、変な叫び声なら思いっきり出たけど。 「驚かせてしまいましたね」 「あ……えっと」  後ろから突然現れたのはさっきの執事さんだった。俺が手に持っている紙袋をチラリと見て、中身を察したみたいだ。 「お荷物をこちらへ。専務の奥様に持たせては執事の私が叱られます」  大丈夫ですって言うよりも早く、それを寄越せと奪われてしまった。奥さん、って、おかしいけど、でも、専務と夫婦になるのなら、そうなるのか。専務が奥さん……は、ないな。あの身長差で専務が奥さんで? 俺が旦那さん? ない。ないない。無理すぎる。 「申し訳ございません。奥様という呼び方は失礼でしたね」 「あー、あははは、いや、大丈夫です。あっ! いえ! 結婚はいまだにちょっとビビってますけど、別に奥さんっていう呼び方を失礼とは思ってないので」  男同士だからね。そういう呼び方とかも気を使ったりするのか。しかも偽装なわけだし。っていうかさ、もしも偽装ってバレたら大変なことにならないのかな。俺の仕事のできなさを専務は知らないけど大丈夫なのかな。そしてこんな俺に新レーベルの立ち上げなんてできるのかな。あの仕事もなんでもできそうな専務の役に立てることなんて、あるのかな。本当に不安しかないんだけど。 「あの、せ、専務は?」 「今、電話をしてらっしゃいます」 「あ、そうですか」  不安と、あと、いっぺんに起きた突拍子もない展開に足元がふわふわする。現実味、なんてものあるわけない。今朝までは遅刻しちゃうかもって心配だけしてればよかったのに、今はあるもの全部、手に触れる全てに不安しか感じない。わけがわかんない。 「専務は貴方様を迎えられてとても嬉しそうでした」 「えっ! えぇっ? どこがですかっ!」  間髪入れずに飛ばした疑問に執事さんが目を丸くした。 「あ、すみません」 「いえ。案外冷静に考えてらっしゃるなと驚きましたが」  冷静なんじゃない、ふわふわしてる。ふわふわしながらも必死に目を凝らして周りを見ようとしてるんだ。 「武藤様は確かに嬉しそうでしたよ。貴方様を呼びたいと呟かれた時、不安そうではありましたが」  不安、あの人が? なんか、どこまでも自信たっぷりで、なるほど、次期社長になる人っていうのはそういうものかと、器の広さを感じたけど。 「今朝も不安そうでした。まぁ、それは仕方がないことかと。いきなり結婚だ、専務の右腕だと言われて、はいわかりましたと言える人はそういないです」 「ですよね」 「でも、貴方が頷いてくださって、専務は嬉しそうでした」 「……」  執事さんが上品に微笑んだ。 「武藤専務はずっと、笑顔を作る靴、を理想としていましたから」 「……」  それはあの面接の日、俺が言った言葉だった。笑顔を作る手伝いをしたと面接で話して笑われた。 「あの人が、ですか?」 「えぇ」  躊躇うこともなく深く頷いた。この人は絵に描いたような執事だから、きっと専務のことを誰よりわかっているんだろう。 「あ! あの! お名前はなんて言うんですか?」 「……私、ですか?」 「はい!」  執事さんじゃ呼びにくいだろ? 店員さん、みたいにちょっと声をかけるくらいならそれでもいいかもしれないけれど。 「私は……」 「はい」 「加納(かのう)です」 「あ、惜しい」  加藤さんじゃないんだ。執事さん、改め、加納さんがまた目を丸くして驚いた。 「これは私の個人的見解ですが」 「?」 「佐藤様と武藤専務は相性バッチリな気がします」 「あ、名前?」  そう、佐藤に武藤に、それで執事さんに名前を聞いて、「か」がつく苗字! ってわかったら、即「加藤」さんかと思うじゃん。砂糖に無糖に、加糖、なんちゃって。で、それを期待したのに、加納さんで、でも響きは似てるから、全く加藤さんじゃないのに、なんか惜しいって思ってしまった。 「専務も小さい頃、同じことを私に言って、加藤にしろと仰りましたから」 「え、えー……俺、改名までさせようなんて思わないですよ」  そこまで王様みたいになれないですって呟いたら、加納さんが「まだ専務が子どもの頃のことですから」って、静かに笑った。  あんな王様みたいなドヤ顔をして、従業員を鼻血ネタで脅して、あんな高級スーツを華麗に着こなす人の子ども時代ってどんなだったんだろう。 「武藤専務の小さい頃ですか?」 「はい」 「それは――」 「何、人の個人情報漏洩しかけてんだ」 「うわぁぁぁ」  いきなり背後から声をかけられ、俺は叫び声を上げ、加納さんはまた静かに目を丸くする。 「ほら、行くぞ」 「あ、あのっ! どこに!」  背が高くて、脚が長い。まるでモデルのようなその人が廊下を歩く姿はさまになりすぎている。近寄りがたい雰囲気すらあるのに。 「そんなの、本社に決まってるだろうが。あと」 「あと……」 「コンビニ」  そんな人が放った「コンビニ」って単語はあまりに俺にとって身近すぎて、でもこの人が言うと違和感すごくて、あぁ、こんなに完璧そうな人にも似合わないものがあるんだと知った。そして、そんな当たり前といえば当たり前のことに気がついたら、フワフワ浮いているようだった足元が急にしっかりとしてさ。 「おい! 環!」 「は、はいっ」  そういや、足、靴擦れしてて痛かったんだっけって、思い出したんだ。

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