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第10話 この人、俺の米、食べました。
この人、俺の米、食べました。
そのせいで全然眠れませんでした。俺、このままスズメの朝チュン聞いちゃうかと思いました。その心配をした直後からの記憶がすっぽりないから、ちゃんと寝ましたけど。
だってさ! 顎の米、食ったんですよ? っていうか、俺からしてみたら、食われたんだけど。ぁ、食われたって、なんか、なんかいかがわしくない? いや、いかがわしくない! いかがわしいって思うことが、すでにもう――そんなことを一晩中ぐるぐる考えてたから眠れなくて、でも眠れて。
そして、朝、千尋さんが俺を迎えに、白馬じゃなくて、黒い高級車に執事を従え、現れて、言ったんだ。
――ほら、いくぞ。
そして、寝ぼけた俺の頬に触れた。スキンシップ過多ですか? そうなんですか? でも、それにいちいち真っ赤になる俺はどうなんですか? って、思うけど。
今はそのことは置いておこう。
今日も朝からミーティングなんだから、そっちに集中しないと。新ブランドの立ち上げをするにもまだそのカラーっていうか、方針っていうか、商品戦略すらできてないから。指針が決まらなくちゃ何も動けない。
「佐藤」
「あ、はい」
本社に出勤して、昨日と同じミーティングルームで、朝一番、千尋さんが俺にこのミーティングで発言する機会をくれた。
「あの、俺、昨日は全然考えてなくて、その、すいません。新ブランドのターゲット年齢、ただ頷いてました」
一礼する俺を皆がじっと見つめていた。加納さんも知らない、昨日、千尋さんとだけ話し合って見つけた方向性のひとつ。もちろんただの意見だし、小早川さんや成木さんに反対されるかもしれないけど。そんなの難しいって突っぱねられるかもしれないけど。
「あの、ターゲットとする年齢なんですが」
二十代、三十代じゃなくて、もっと幅広く。
「六十代まで考慮してみてはどうかと思ったんです」
俺と千尋さん以外は目を丸くしていた。
無理なく履けて歩きやすいけれど、形を工夫してさ。すごく難しいと思う。カラーバリエーションも豊富にするとコストはかかるし、何よりデザインがすごく難しい。ピンヒールなら足はすごく綺麗に見えるだろうけど、ご高齢の方にピンヒールはかなり難しい。でもヒールを太くしただけじゃファッション性としては落ちてしまう。安定感もあり、歩きやすい。でも、寸胴な「靴」じゃなくて、美しさもある「パンプス」を作りたい。
「む、難しいと思います。デザインとかも、コストも」
仕立てのいいものにすればそれだけコストはかかる。コスト制限がないのなら、いくらでも凝った物を作れるかもしれない。でも一足何十万もする靴を誰もが買えるわけじゃない。新レーベルはそんな超が付くような高級パンプスじゃなくて。
「でも、パンプスに不慣れな新社会人が靴擦れなんてせずに就活を頑張れて、そんで、おばあちゃんはスラッとしたパンプスで足元を楽しく」
誰もが履けて、誰もが笑顔になる、そんなパンプス。
「年齢の幅を広くしたいんです」
人生はままならない。俺の思い描いてた社会人生活とはかけ離れた毎日だった。だから、今、思い描いているものも理想ってだけで、全然、無理なことなのかもしれないけど。
「……あ、あの」
俺のアイデアに頷いてくれた千尋さんは成木さんと小早川さんをじっと見つめていた。加納さんは広報だから、出来上がった商品をどうアピールしていくか、そこに重きを置いていて、俺の発言をメモにとっていた。
マーケティングの仕事を任されている小早川さんにしてみたら、ターゲットとする年齢層の幅はどう捉えられたんだろう。市場が欲する声に俺のアイデアはちゃんと答えられるのかな。
俺と一緒にデザインを作っていく成木さんは、ヘソが茶を沸かすレベルで夢物語だった? ご高齢の方もすらりとした足に見せられるパンプスの量産モデルのデザインなんて、不可能だと。きっと俺よりもデザイナーとして優秀だろう成木さんからしてみれば、本当にそんなの作れると思ってる? って感じ?
「俺はいいと思う。うん……まぁ、デザインとかめっちゃ難しいけど、二人でアイデア出し合いながらなら大丈夫だと思うし」
成木さんが先に賛同してくれた。深く頷いてくれた瞬間、ふわっと心臓が持ち上がる感じがした。だって、この人はきっと俺が面接の時にひどく遠くに感じたすごいデザイナーの人達と同じか、それ以上の実力を持っている人だろうから。その人に自分の拙いアイデアに賛同してもらえるなんてさ。
小早川さんは……俯いてた。うーん、って唸りながら、手元の資料をじっと見つめたまま。
「ねぇねぇ、小早川は?」
ダメ、っぽい? そう伺おうと思ったところで、隣に座っていた成木さんが小早川さんの視界に入ろうと覗き込んだ。
「うん。私も良いと思う。面白いかなって。価格は、うーん、あんま高くないほうがいいなぁ。何万もだとちょっと買いにくいかも。一万前後くらい? あ、あとねっ」
びっくりした。もう話を先に進めてる?
「カラーバリエーションは豊富に、デザインはぁ……まぁ、デザインのことあんまりわかってないけど、でも、シンプルなほうがいいかな。靴の自己主張って若い年齢には好まれるけど、でも六十代にはさ」
「えぇ? そうかなぁ。それって、地味なデザインを見慣れてるからっていうだけの安定じゃん。そこは少し冒険したってさ」
「冒険を誰もが好むってわけでもないでしょ」
「でもさ」
俺はポカンとしてしまった。だって、もうミーティングはいつの間にか次の段階に進んでた。指針はもう、決まってた。
俺が指差した方向に向かって、すでに五人が乗った船は海の中を漕ぎ出していたんだ。
昨日のミーティングで俺は、ここに入る必要なくない? なんて拗ねてたのに。
「……はぁ」
ウソみたい。大きな溜め息をついてしまうほど疲れたけれど、それは自分に対する残念さからの溜め息じゃなくて、ぽんぽんと先へ進んでいくミーティングに脳みそフル回転で混ざり続けたことによる疲れ。
「お疲れ」
「……千尋さん」
ちょっと気持ちイイ。こういう疲れって、あんまり今まで実感できたことなかった。現場にいた時はもうずっとあっちこっちもって手を出しては次の仕事に追われて、慌ててそっちに向かって、そして一日があっという間に終わっていく。溜め息をつきながら、今日はやり忘れたことないかな、大丈夫かなって確認して。
だから、今日の疲れと溜め息は気持ち良くて、自然と口元が緩むほど。溜め息なのに、昨日のそれとは全然違うのがすごく嬉しかった。
「ほら」
悪戯を楽しむ子どもみたいに、くしゃっと笑った千尋さんが、俺の頭の上に何かを乗っけた。もう、ちゃんと渡してくださいって小言を言いながら、からかい半分で頭に乗っけられた缶を取ろうと伸ばした手も元気な感じがする。
「!」
そして、元気すぎて、勢い余って触れてしまったこの人の手に慌てて手を引っ込めたら、目の前にスッと差し出された、たっぷり生クリーム入りの缶コーヒー。
「ご、ごちそうになり、ます」
手、触ってしまった。
「あぁ、どうぞ」
って、別に、指先がちょこんと触れただけだけど。
「……」
どぎまぎしてるの、俺だけだけど。
「……」
どきまぎしすぎて、沈黙になって、俺だけすごく焦っているけど。
「お前さ」
「はっ、はい!」
「髪、柔らかいんだな」
「……へ?」
「子どもの髪みてぇ。今朝、あんなに跳ねてた寝癖がいつの間にか直ってる」
「へっ? ぇ? ちょ、寝癖あったんですか?」
あぁ、って眉を上げて、しれっとした顔でブラックコーヒーなんてものを飲んでいる。
「ちょ! 教えてくださいよ!」
寝癖があるかどうかなんてチェックする暇なかったんだ。寝たの遅かったから、起きるのも遅くて、そんで、千尋さんが迎えに来てくれる十分前に飛び起きたんだから。一瞬、白目向いてその場に倒れて仮病でも使おうかと本気で考えたんだから。
ぐるぐる考えてた。
昨日、ご飯粒を食べられたことに、ドキドキした自分のことを考えてたら眠れなかった。
だって、千尋さんは男じゃん。俺はゲイじゃないのに、千尋さんにドキドキしたってことに、ドキッとしたんだ。
もしも相手が女の子だったら? 女の子が俺の顎のご飯粒を食べたら? ドキドキするじゃん。顔真っ赤になって、ちょっと調子に乗りそうな自分がいると思う。
男だったら? 男にいきなりご飯粒をちょんって取られて食べられたら、ぎょえ! ってすると思う。なんで俺の米粒食ったんだーっ! って、内心叫んでから、ちょっとげっそりする。
じゃあさ、千尋さんだったら? そこまで考えて、急に熱くなる頬を慌てて掌でぎゅっと潰すようにして、布団の中に潜る。っていうのを何度も繰り返してた。
「環?」
「……」
この人にご飯粒食べられてドキドキしたって思い出したら、動悸息切れがして、なんか、ちゃんと眠れなかったんだ。
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