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第12話 たまちゃん、驚愕す。

 ラブい……わけないじゃん! 花嫁なのはフリだし。フリ! 花嫁役なだけ。その花嫁役に選ばれたのだって、作りたい靴の定義が俺と千尋さんで重なったからっていうラブいとこ皆無だし。きっと他にもたくさんその靴定義を胸に掲げてる人はいるだろうけど、俺がたまたま面接でそれを言って。たまたま千尋さんが聞いただけのこと。  ――ふたりでどっかでしっぽりしてたんじゃないのかなー。  しっぽりなんてしてないし。がっつりキムチチャーハン食べてただけだし。  ――今日、専務一日、本社にいるって聞いて嬉しそうだった。  それは別に。ただ、あ、今日はいるんだなぁって思っただけで、嬉しそうになんてしてない。嬉しそうってどんなだよ。俺、鼻血で脅されただけなんですけどっ。  ――さっきから時計気にしてる。  時計を気にしてたのは、お腹が空いたからなだけです。早く昼飯食べたいなぁって思ったから、時間がすぎるのを待ってたんだ。  ――そわそわしてる。  だから、それもお腹が空いたから。っていうか、そわそわしてないし。  ――早く会いたいんだろうなぁって。  そんなことない。全然、俺は会いたいなんて思ってない。ただ……。 「環?」  久しぶりにいるなぁって思っただけですし? 別に、そんな。  ――あの専務がすっごい信頼してる。  千尋さんが俺のことを信頼、もしも、もし、そうだったら、それは、ちょっと嬉しい……かな。 「どうした? ボーっとして」  あ、どうだろ。ちょっとじゃないかも、けっこう、嬉しい……かも。え? 俺、嬉しいの? しかもけっこう嬉しいんだ。そっか。  って、なんでだよ。  なんで、嬉しいんだよ。  じゃあ、千尋さんが一日会社にいることは? ランチに誘ってくれたことは? 「なんかあったか? おい、環」  それも、実は、嬉しい……みたいだ。 「ふごっ、ふぐっ、って、ちょ! 鼻摘まないでくださいっ」  いきなり、むんずと鼻を掴まれて、窒息しかけた俺は手が離れた途端、隣で眉を上げてしれっとした顔をしてみせる千尋さんにギャンッ! って、ちょっとだけ噛み付いた。もちろんこの人がそのくらいのことで反省するなんて思ってないし、身分違いでそれをやってもこの人は気にもしないって知ってる。そんな懐の広いところが。  え? 広いところが? は? 「っぷ、顔真っ赤」  真っ赤、なんだ。今の俺。この人とランチしてることが嬉しくて、そんで鼻摘まれて、真っ赤になってるんだ。信頼されてるって言われて、喜んでるんだ。 「飯来たのに、ぼーっとしてるお前が悪い」 「もぅ、って、デカ!」  千尋さんが連れてきてくれたのはパスタ屋だった。安いのに量がけっこうあるから、便利でよく通ってたんだって、そう言ってたけど。 「だから、量があるって言っただろ」 「そうですけど」  ありすぎじゃない? オレンジと青のチェック柄がポップなお皿にお洒落に盛り付けられたパスタ、ではなく。お洒落ガン無視のスパゲティがお皿からはみ出る勢いで盛られている。食べるっていうか、山を切り崩すような感じになりそうな分量で、思わず声を上げた。 「ほら、早く食えよ」  強引な言い方なのにさ。  優しくて、声が心地良くてイヤな気分にちっともならない。目付き悪いのに、見つめられると怖いとか怯えるとかじゃなくて、ドキドキする。最初は緊張してたよ。だって、ほら、こんなカッコいい人がじっとこっちを見つめてきたら、視線のやり場に困るに決まってる。 「成木とはどうだ?」 「どうって……ちゃんと仕事してます」  なんで、嬉しいんだよ、俺。なんで、この人とこうして一緒にいて、こんなにドキドキしてんだよ。さっき成木さんと二人っきりだった時は静かにしていた心臓が今は飛び跳ねて騒がしいのはなんでだよ。 「あ、でも、デザイン勉強してた時のテキスト持ってきたんです」 「……へぇ」 「それを成木さんがけっこう真剣に読んでくれたのはちょっと嬉しかったです」 「ふーん」 「あ、あと、やっぱデザインと機能のちょうどいいバランスが難しくて。でも、はい。成木さんと頑張ります」 「ほぉ……」 「って、もう! なんで、そんな興味なさそうな返事なんですか! 千尋さんの新ブラ……ンド、の……」  この人は頬を触るくせがある。最初っからそうだったじゃん。だからこうして頬に触れることに何も意味は含まれていない。クセなだけ。だからさ。 「新ブランドの成功は必須だ。環なら、俺が求めてる靴を一緒に作ってくれるってわかってるからな」  ――あの専務がすっごい信頼してる。 「ただ、成木と気が合ってるみたいだなって、そう思っただけだ」  なんで、嬉しいのか。なんで、ドキドキしてるのか。なんで、触れられることにこんなに飛び跳ねそうになるのか。  この人の声、好きだなぁって。  この人のこと、もしかしたら、好きになっちゃったんじゃないかなぁって、それが嬉しい気持ちの理由なのかもって、今、思ったんだ。 「昼飯食いすぎて居眠りするなよ?」 「しっ、しませんってばっ!」  居眠りなんてするわけないだろ。これは俺にとってもすごくやりがいのある仕事なんだ。ずっとやってみたかったデザインができる機会なのに。その機会をくれた千尋さんには感謝してるし、たとえそこに花嫁役っていうのがくっついてきてるとしたって、仕事は仕事で。別に、新ブランドの立ち上げが終われば、その役目は……終わるんだ。 「ほら」  骨っぽい千尋さんの指先が、ほんの少し、ほんとちょびっとだけ唇に触れた。口を開いたところで、パッと何かを放り込んできた指先に、俺は自分でもびっくりするくらいに神経が集中する。唇の端に掠める程度の接触だったのに、たったそれだけでもこんなに意識してしまう。今、その指に放り込まれた欠片が何かを舌で確かめながら、ちょっとでも背中を叩かれたら、口から心臓が出てきそうなくらい、ドキドキしてる。 「それ食って居眠り防止」  ガムだ。ミントのガム。 「それじゃあ、また後でな」  口の中がスースーした。風が巻き起こってるみたいに、ひんやりとする。 「あ、やっぱ、ランチデート?」 「……成木さん」 「たまちゃん? 何? え? 顔真っ赤だけど?」  ひんやりとするのに、身体は熱くて、頬は火照ってる。 「大丈夫? 風邪?」  ううん。これは、きっと、恋の病だ。 「たまちゃん?」  成木さんにからかわれてから一時間十分後、俺は恋の病を患っていた。千尋さんを、好きだって、たったの一時間十分で、人生初の衝撃的恋心に気がついてしまった。

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