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第18話 ラグジュアリー男
経験者は語る。成木さんが「最初は大変だけどさ」って言ったんだ。キスだけでも立ってられなくなった俺は、その最初の時点で、きっと千尋さんに多大なるご迷惑をおかけする。
嬉しそうなこの人を幻滅させてしまったり、残念がらせてしまったらいやだなぁって思った。
「できるかなぁ」
「どうでしょうか。こんな歩道の端では、さすがにでんぐり返しは頭が割れるかもしれませんね」
「へ?」
執事だから? 気配もなく急に隣に来るとか只者ではない感じがすごいんですけど。
「歩道でしゃがみ込んで、地面に向かって呟いてらっしゃっるので、私はてっきりでんぐり返しでもされるのかと」
「しっ! しませんよ! アスファルトの上で前転なんて」
「それはよかった」
慌てて立ち上がると、俺と一緒に地面を見つめてしゃがみ込んでいた加納さんも立ち上がった。スラッとした中年紳士、上品なスーツもしっかり着こなせる彼に、まるでアリンコを眺める子どもみたいなことをさせてしまった。
あ、いや……違うのか。もしかしたら、この人なりのユーモア、だった、かも?
「千尋様はもうしばらくかかりそうです」
「そ、ですか」
その名前が出ただけでほっぺたのところで、ぼわっと火が上がった気がする。
仕事を終えたら、一緒に夕飯をって、今朝、両想いになれたばかりの婚約者に誘ってもらえた。順番なんてめちゃくちゃ。
フリだけれど結婚を前提にした交際みたいなものから始まって、千尋さんの家族、になるのかなブス三兄弟にご挨拶をとりあえずして、次にデートして、千尋さん本人を無視して、その三兄弟に千尋さんが好きですって改めて宣言した。なんじゃそれ、だ。
「千尋様が環様をひとりで待たせていると心配だから、一緒にいて欲しいと頼まれたのですが、たしかに、心配ですね」
「お、俺、小学生じゃないですから。ひとりで待つくらい出来ます」
そして、キスした。しかも、ブス三兄弟がめっちゃ見てる目の前でして、そのあと、ご本人に心から好きですって告白。
「せめて社内でお待ちになればいいのに」
「顔がぽっぽするんで、外で冷やしてるんです」
「熱ですか?」
キスから、告白、そんで……初夜。ほら、順番とかちんぷんかんぷんでさ。初夜って単語を頭の中で思い浮かべる度に顔が火照るから、外で、北風に冷やしてもらっていた。どうしたって、社内じゃ暖房が頬の熱を加速させてしまう。
「いえ、大丈夫です」
「それを聞いて安心いたしました。千尋様がこの後のご予定をとても楽しみにしてらっしゃったので」
「!」
この後は……初夜が、俺と千尋さんを。
「おや、やっぱり熱がありますか?」
「ないですってば! 加納さん、からかってますよねっ?」
「いえいえ」
初夜っていう単語に熱が上がるんだってば。それを知ってか知らずか、涼しげな顔をしつつ笑ってる。もしかしたら、一番意地悪なのはこの人なのかもしれない。笑顔で隠してるけどさ。
そんな疑いの視線すら笑顔で華麗にスルーしてるし。ほら、この人がラスボスだったらって考えたら、すごくブス三兄弟が可愛く思えてきた。いや、可愛く見えたりはしないけど、ブスなまんまだけど、この人に比べたら可愛い気がする。
「今度は加納と盛り上がってんのか?」
「千尋さん!」
振り返って、その人を見つけて、心臓が普通に飛び跳ねた。俺って、まるごと単純なんだな。好きって自覚してからずっと、この人に自分の内側が飛んで跳ねて踊ってる。
「熱……あんのか?」
だって、見てよ。スーツのジャケットを脱ぐ仕草がめちゃくちゃカッコいい。なんて見惚れてる場合じゃない。
「だ、だ、だ、大丈夫です!」
俺の肩にあまりにも普通にそのジャケットをかけようとするから、慌てて突っ返した。今日のだってめちゃくちゃ高級そうなスーツなのに、それを俺の肩になんてかけたりなんてしないでよ。
「……本当か?」
「は、はい。大丈夫です」
「だが、今夜は急に冷え込むらしい。肩に」
「へっ、平気ですってば! そんな高級なの肩が凝っちゃいますから」
っていうか、貴方のほうこそシャツ一枚じゃ寒いじゃんか。風邪引いたら、それこそ大変なのに。だから、ほら、ってジャケットを押し戻す。その手が変にぎくしゃくしてた。だって、この人、ナチュラルの俺のこと大事に扱ってくれるっていうかさ。今まで、優しい人だなぁって思うことは何度もあったけど。でも、今、この人が俺にくれる優しさに好かれてるっていう単語がくっついてるって思うと、どうしたらいいのかわからなくなる。
ただ、見かけよりもずっと優しい人だった千尋さんが、急に恋人を甘やかしてる男の人に見えて、指先がじんじんする。
「……飯、今度でも、」
「大丈夫です!」
即答してしまった。そして、千尋さんが目を丸くした。
「大丈夫! です!」
「っぷ、お前、本当に熱あるみたいに真っ赤だぞ」
「これは! ただ、緊張してるだけです!」
「もう、何度も一緒に飯食ったのにか?」
「はい!」
だって、それは普通だった時の話じゃん。今の、この恋人同士っていう状況じゃまた違うんだから、そりゃ緊張もする。そんな俺の胸の内を覗き込むように見つめて、それから、溜め息をひとつ零し、クシャッと笑った。
「わかったよ。何食いたい?」
そして、ようやくジャケットを着てくれる、その仕草ひとつひとつに、俺はやっぱり見惚れてしまっていた。
「ちょ……あの……」
お食事直前に言うべきことじゃないんだけどさ……俺、ちびりそう。
「ちひ、ちひ、ひ、ろさん」
ほら、名前の呼び方すら噛みすぎてわけわかんない。
「最初に言っただろ?」
「い、今じゃなくたって」
どこで晩御飯かと思ったら、まさかの高級三ツ星レストランだなんて。ホテルの中にある、テレビでも見ないような最高級レストラン。入った瞬間から、縮み上がって立ち竦んでしまいそうだったけど、そのレストランの、プライベートテーブルで、夜景を楽しみながらディナーデートだなんてさ。
「ほら、環」
ほら、じゃないよ。夜景に気をとられてばかりいたら、名前を呼ばれて、そっちへ振り返って心臓止まりそう。ゆったりと椅子に座り、こっちを見た千尋さんが唇の端を吊り上げて笑ってる。
「シャンパン」
夜景はクリスマスが近いからなのか、今シーズン一番の寒さでキンと冷えた空気がそうさせるのか、キラキラととても輝いているように見えた。
「乾杯だ」
でも、目の前の人はこのラグジュアリー空間にあまりにもマッチしすぎてて、あまりにも出来すぎなポスターみたいで、夜景以上に目を離せない輝きを放っている気がした。
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