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第19話 ラズベリーとサクランボ
トリュフというものを、トリュフ、と認識しながら食べてしまった。食前酒として運ばれてきたやたらめったらシュワシュワしているシャンパンの中に沈んでいる、まるでお風呂にいれるバブみたいな赤い実をさくらんぼだと思って口に入れたら、シロップ漬けのラズベリーでびっくりして吹き出しそうになった。でも、すごく美味しかった。
あと、ほら、良くあるじゃん。果物の甘みとしょっぱい系ソースの絶妙なコラボレーション的なやつ。酢豚のパイナップル方式の料理。俺、ああいうので絶妙なコラボを味わったことがないんだけど、しょっぱいのと甘いのがただ一緒に口の中にあるだけって思うことばかりだったんだけど、人生初、それが本当に絶妙に合わさっている料理を食べた。びっくりした。
一番美味かったのは、聞いたこともないキノコのソテーがナントカソースと一緒になって、魚に乗っかってる料理。あれで白飯食べたいって思ったんだ。
「美味かったか?」
三ツ星レストランとはこういうものなのね、って、人生初の体験だった。
「はい。美味かったです」
「でも、あの、俺、おごってもらったら」
「バーカ」
アパレルのハイブランドがコンセプト協力をしているレストランらしくて、俺にとって良い刺激になるかもと思って、ずっと連れてきたかったんだって。平日だったから入れたけれど、それでも早い時間になったな、なんて言ってた。こんなすごいとこ、予約なしで、朝連絡したからって、平日だからって入れるわけないのに。
千尋さんはたまたまだって言うけれど、きっとそんなわけない。無理をしてくれた気がする。俺のためにって。
「ここの支払い……だけど?」
「!」
耳打ちされたお値段に、たしかに俺はぴょんと跳ねた。
マジですか? そのお値段とか、マジなんですか?
俺は彼の欲しかったどおりのリアクションが出来たんだろう。びっくりしている様子を見て、とても楽しそうに笑っていた。その背中に、さっきまで見下ろすばかりだった夜景を飾りながら。
無音で下りていくエレベーター。ガラスで外の景色が丸見えなんだけれど、足元にあった夜景がゆっくりと身近な景色に変化していくのを眺めながら、まるで魔法が解けてしまうような錯覚に陥る。
ラグジュアリーな人と楽しむラグジュアリーなデート、空間、時間。全部が宝石みたいにキラキラ輝いていて綺麗だったけれど。
でも、俺自身はさ、そんなラグジュアリーから程遠い一般人で。この人がシャンパンの中に浮かぶラズベリーなら、俺はメロンソーダーに浮かぶサクランボ。
「さてと、タクシーでいいか?」
「えっ?」
あ、しかもちょうど、童貞だ。そんな童貞な俺は、思わず、スーツの裾にしがみついてしまった。だって、千尋さんがタクシーなんて言うから。
「環? タクシー、酔いそうか?」
「あの、帰るんですか?」
そこで、エレベーターが地上へと降り立った。静かにスライドして開く扉、そこはロビーで、さっきまでのレストランとはまるで違う雰囲気だった。エントランスから入り込んでくる外気で少し冷えた空気とあっちこっちから聞こえてくる談笑。
ラグジュアリーな魔法が解けてしまったみたい。
「……環、お前」
だから、あんまりそっち、エントランスのほうに行っちゃわないほうがいいですよ。たぶん。
「あの……」
「無理すんな」
ぎゅっと唇を結んで、童貞なりに、今、言葉を探してたのに。
「ここを選んだのはお前のデザインの、なんでもいい、足しになればって思っただけだ」
「……」
「別にそういうことを狙ってここを選んだわけじゃない。お前、慣れてないんだろ。今朝、なんとなくわかった。だから無理しなくていい」
この人はすごく優しい人で、強面の外見によく似合う脅しなんてして俺のことを花嫁役にするくせに、よく似合わない遠慮なんてことをたまにするんだ。そんなのしなくていいのに。
「俺はいくらでも」
「しないんですか?」
「待てる……から」
俺はこの人に今日何回、こうしてしがみついたんだろう。皺になってしまうって知ってても、それで怒られるかもしれないけど、掴んだまま離さないでずっと引っ張り続けてる。皺になったぞ、って脅してもらいたいみたいに。
「無理、してません」
今日一日、ずっと、自分が童貞だけれど、ちゃんとできるかなって、そんなことばっか思い悩んでたんだ。
「しない、ん、ですか?」
誘い方もわからない俺は視線を向ける先にすら戸惑ってしまって、足元だけを見つめながら、消え入りそうな声でそう訊くのが精一杯だ。
「一日、ドキドキしてました。千尋さんみたいにそういうの経験ないんで、モテないし。男同士で、俺は初めてで、千尋さんにしてみたら、あんまかもしれないけど。色気とかないし、その気にならなないかもだけど、でも、無理なんてしてません。一日中、その時のことを考えてました。だから」
「わかったから、もう言うな」
「っ」
成木さんの思っていた以上に、俺にはハードル高かったかも。もうこの時点で大失敗したっぽい。言うなって、聞きたくないって。
「我慢できなくなるから、部屋、取るまで、ちょっと待ってろ」
「……」
べそかきかけた俺は、その言葉に顔を上げて、そんで、びっくりした。
「ここから動くなよ」
だって、あの千尋さんが、三兄弟にもふてぶてしく笑って、人のことを脅して花嫁役までやらせる人が、顔真っ赤にしてうろたえてた。口元を手で覆い隠して、いつもはっきりしっかりしゃべるはずの人が、ごにょごにょと自分の口を覆う掌に向かって何かをぼやいてる。
「え? あの」
「動くなよ。部屋、取ってくるから。やっぱ無理っつって逃げんじゃねぇぞ」
「へ? ぇ? 千尋さんっ?」
そして、走って、フロントへ行って会話を交わして、首を横に振った。もしかしたらスタッフの案内は無用だって断ったのかもしれない。その手に持っているのは部屋のキーなのかな。そう思っただけで心臓が跳ねるのに。
真っ直ぐ、俺だけを見つめながら、少し眉間に皺を寄せて何かを耐える表情と強めに結んだ薄い唇、それにスーツがよく似合う長身に撫で付けた柔らかそうな黒髪。何かもがやっぱ、見惚れてしまうほどラグジュアリーな人が。
「いいんだな?」
そんな人が俺だけを見つめて、そう尋ねたりする。
「環」
逃げるなよ、なんて言われたらさ。
「いい、です。その」
嬉しくなってしまう。逃げるどころか自分からこの人のことを捕まえようと手を伸ばして、ぎゅっとしがみついてしまう。
「……えっと、お願い、します」
経験値ぼぼゼロ。童貞だった俺の人生初のお誘いは色気なんて皆無の、すごくぎこちないものだったけれど、緊張で声が震えてしまうほど拙いものだったけれど、俺が逃げないようにって手を掴む彼の掌が驚くほど熱くて、強いから、気持ちは届いてるみたいでとても嬉しかったんだ。
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