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第20話 悩めよ、青年。
眼下に広がるのは綺麗な夜景。大きな窓ガラスは何にも遮られることなく、その夜景を、遥か遠くの夜空に輝く星を、月を、見せてくれる。皺ひとつないベッド、モダンな印象を与えるブラウンのクッションは薄桜色のシーツによく似合っていた。そのベッドの枕元には絵画が飾られている。足元にある夜景へベッドの中で眠気にまどろみながら抱き合って眺めるも良し。間接照明でほんのりと照らされた現代アートを楽しみながら、ふたりで微笑み合うも良し。整然としている部屋はまさにラグジュアリー――なんて、浸っている場合ではない。
「…………」
今、俺は、迷っている。
「…………」
服を。
「……」
服をね、着るか。否か。とっても、迷っている。
――いいか。ちょっと外に出るが、お前はここで待っていろ。いいな? 逃げるんじゃねぇぞ。
そう言われて、逃げる気なんてない俺はいそいそとシャワーを浴びたはいいけれど、さて、服を着るべきか、どうか、迷っています。
逃げないよ。逃げるわけないじゃん。俺が、その、し、し、しない、しないんですか? って訊いたんだから、逃げるどころか、ここで待ってる間にシャワーだって浴びたもん。でもさ、これ、服、着る? どうなんだろう。普通ってどうすんの? 着たって、また脱ぐでしょ?
「ぬ、脱ぐって……」
自分の何気ない思考に照れて、ぼそっとひとり呟いちゃったけど、でも、脱ぐでしょ? これから、そういうこと、するんだよね? そしたら、服脱ぐじゃん? なら、今ここでわざわざスーツ着る必要ないでしょ?
えー、でもそれってやる気満々な感じがすごくない? 待ってました! と、言わんばかりの裸ん坊って、恥ずかしくない?
じゃあ、着る?
うーん、でも、着てたら着てたで、シャワー浴びたのに一日着てたのを着るわけで、そしたら、する時にまたシャワー浴びたほうがいいってなっちゃうかもしれないじゃん?
じゃあ、脱ぐ? でもさ――。
そんなことをぐるぐる考えながら、ベッドの上でとりあえず畳んだ自分のシャツと下着を手前において正座待機をしてから、すでに早三十分が経過した。
「おーい……千尋さん……」
着替えはどうしたらいいのでしょうか。こういうシチュで何をどうしたらいいのかわかりませんけども。
っていうか、千尋さんはどこに行ったんだろ。待ってろっていったけどさ、三十分もどこにいってるんだろ。下でコーヒー飲んでたりして。いや、それでも三十分って、どんだけ飲んでるんだよ。夕飯、あれじゃ足りなくてどっかで食べてるとか?
もしくは、もう。
「……」
もう、どこにもいなかったりして。自宅へ帰っちゃってたりして。しないのかって、訊いたけど、待ってろって言ってくれたけど、もしかして、気が変わっちゃった、とか。
「えっ! あっ!」
俺、バカなの? スマホ持ってるじゃん。ちょっと出てくるって三十分もいないんじゃ、もしかしたら何かあったのかもしれないじゃんか。
慌ててバスローブのままベッドからクローゼットにかけたスーツに飛びついて、スマホをポケットから取り出した。
着信もメッセージも来ていない。でも、もしかしたら、すごく急なアクシデントに見舞われたとかだってありえるし。いや、それは怖いから想像するのはやめよう。そんな縁起でもないことを考えるのよくない。
「……」
それとも、本当に、帰っちゃってたりして。
何も千尋さんからの連絡がない静かなスマホを握り締めながら、その場でしょんぼりと肩を落とした時だった。
「……環?」
ガチャッて、扉が開く音がして、それからビニール袋が落っこちたガサガサっていう音と、千尋さんの声が俺の名前を呼んで、そんで。
「んんっ……ン、ふっ……ン、んっ」
振り返ったら、キス、された。
「ン、っん……ぁ、ちひ、ろ……さっ……」
足が絨毯から浮いて、俺はふわりと抱き上げられたまま、下から奪うように口付けられて、びっくりするばかり。
「お前、何、やってんだ」
「ぁ……あの」
「なんで泣いてんだよ。スマホ握り締めて」
「ぁ……えっと」
いきなり抱きすくめられたから、千尋さんの胸と自分の間を邪魔にするみたいに両手で持ったスマホがそこにある。
「帰って、しまったのかと……思って」
重くない? ずっと抱き上げられてる。これでもれっきとした成人男性なんだけど、そんな俺を持ち上げたまま、千尋さんは気にもせず、ただ目を丸くして俺を見つめてる。
「お前、なぁ」
「……はい」
よくわかんないけど、溜め息を吐かれてしまった。
「シャワー浴びたのか」
「はい……その、汗臭いし。それに、その」
するのなら、シャワー浴びるでしょ。よくドラマとかでもそうじゃん。する時「じゃあシャワー」ってなるじゃん。だから、俺もそうしたんだけど。リアルとドラマだと違うのかな。俺、あまりに超初心者すぎる? ドラマと現実が混ざっちゃっててカッコ悪い?
「んで、スマホ握り締めて? 俺が帰ったとか思ったのか」
んぐって、言葉が詰まった。だって、帰ったと思うじゃん。三十分もいないんだから。いや、もうちょっと長かった。そんなの、どこ行ったんだろうって、不安になるでしょ。
小さく頷く俺を、じっと千尋さんが見つめてた。
「帰ったらって、そう思って?」
そして、長い首を更に長く伸ばして、俺の瞼にキスをした。
「なんだそれ」
そう言って意地悪く笑うこの人の唇が濡れてる。恥ずかしい。俺、この人が帰ったかと思っただけでベソかきそうだったなんて。
「あんま、可愛いことすんなよ」
「だって、ちっとも帰ってこない千尋さんが悪いんじゃないですか。どこに」
俺を抱きかかえたまま部屋を歩く人の頭上に文句を零してたら、そのまま、そっと、本当にそっと、ベッドの上に置かれた。身長差はかなりあるけど、男の俺を持ち上げて下ろしてっていうだけでも大変そうなのに、少しでも乱暴にしたら壊れるみたいに扱われて、胸のところがくすぐったい。この人のことを好きだって自覚してからずっと忙しくて仕方のない胸の辺りが変な感じになる。
「逃げられないようにって慌てて戻ってきたら、バスローブだぞ? たまんなくて抱き締めたら、石鹸の香りはするわ、涙ぐんでるわ、おまけに少し身体冷えてんじゃねぇか」
「それはっ」
「シャワー浴びて待ってたとか、ホント……」
待ってましたよ。そりゃ、だって、今日、するんだから。シャワーだって浴びますよ。
「買い物してきた」
「へ?」
ドキドキしすぎる心臓に唇をきゅっと噛んで堪えていた俺は、そういえば、さっきこの人がビニール袋を持っていたことを思い出した。小さな青いビニール袋。
「コンビニじゃ売ってねぇからな」
「?」
「ベッドから降りるなよ。五分で戻る」
「へ?」
「俺も、シャワー浴びないとだろ?」
「!」
心臓が跳ねた。ビニール袋を手渡された拍子に、ちゅ、と可愛い音がするキスをされて、肩をすくめてしまう。
「そこにいて、袋の中のもん、見てろ」
だって、王様みたいに命令するその人はすごく楽しげな子どものような。
「こ、これ」
「するのに必要だからな」
それでいて、ゾクゾクしてしまう色気たっぷりなような笑顔を、してたから。
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