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第25話 潮風ビュービュー
心臓止まりそうなくらいカッコいい人が玄関に立ってた。何! って、叫びたいよ。だって、いつもは撫で付けてる髪がさ、そのままなんだ。サラサラで少し長い黒髪に、黒のトレンチコートに黒のたぶんカシミアだと思われるストールに、黒のニット。パンツはすごく綺麗な細身シルエットのダークグレー。そんで、靴も黒。黒、くろ、クロがめちゃくちゃカッコよくて、そんな人にさらうようにキスされて、デート、まだ始まってもいないのに、もう蕩けそう。
「……ン」
唇が離れてもなお、腰を抱いたままの人に胸におでこくっつけて、しがみついてる。
「わりぃ、お前の私服、やばいな」
やばいのは千尋さんの私服でしょ。黒づくし。
「あの、千尋さん、ここ玄関なんですけど」
もっとこうしてたいような、でもやっぱり……。
「デートっ!」
腕の中からズボッと顔を出したら、千尋さんがいつもは鋭い印象のある瞳をできる限りまん丸にして驚いていた。
「どこに行くんですか?」
そして、俺の質問に「今それ訊くのかよ」って、行き先を言い忘れてる本人が笑ってる。
「わり、海だよ。ドライブ。言ってなかったな。緊張してて、場所言い忘れた」
「緊張? 千尋さんが?」
緊張なんて言葉、知ってるの? ってくらい、その単語から程遠い気がするのに?
「あぁ、昨日、車の中で、いつ言おうかって、ずっと考えてた」
俺をデートに誘うタイミングを? あの横顔で? 俺が、ずっと眺めていたいって思いながら見つめていたあの横顔が考えてたことがそれ? あの時、予定はないと答えたあと、この人の耳は真っ赤だった。
たくさんデートしてきたことがあると思う。相手はきっと俺みたいなちんちくりんじゃなくて、秋物も春物もちゃんと持ってて、お洒落で、こんな黒コーデをさらっと着こなせる人の隣にいても皆が納得しちゃうような人だって、勝手に予想してる。
でも、そんな人は昨日、車の中で、今思い返せば、いつも以上に静かだった。あれは緊張しながら、誘うタイミングをはかっていたから? あの真っ赤だった耳は、嬉しかった、から?
「へへへ」
「何笑ってやがる」
なんでもないよ。なんでもないです。ただ、嬉しかったんだ。玄関を開ける直前よりも、今のほうがもっと、ずっと、好きになっただけです。
だから、ぎゅっと抱きついて、同じ男としては悔しいけれど背伸びをして、爪先立ちしすぎて、本当に一瞬、激突みたいになったけれど、キスをひとつした。触れるというよりも、ぶつかっただけのキス。
「海、行きましょう!」
「……」
「ぁ、ちょっと待っててください! 鍵を……はい、これでだいじょー、」
鍵をかけて振り返って、そして、またもっともっと好きになった。
「お前って、ホント」
だって、すごく嬉しそうに、どこか子どもっぽく笑ったりするから、黒コーデのシックは雰囲気とあいまって、たまらなくドキドキさせられたんだ。
千尋さんの運転を初めて見た。いつも加納さんが運転してくれていたけれど、休日ドライバーだからなって言ってた人とは思えないくらい様になってて、もうそれを横目で盗み見るだけでもお腹いっぱいになれる。
車で三時間かからないくらい。ドライブデートは静かで穏かで、低い千尋さんの声が気持ち良くて、ふんわりと続く会話が心地良くて、あっという間に海に着いてしまった。
「うわああああ!」
秋晴れの空は高く青くて、海も青くて、海から吹いてくる潮風をでっかく開けた口で飲み込んだ。
「千尋さん!」
「……あぁ」
何かあったから呼んだわけじゃなかったんだ。淡々と押し寄せてくる波と音は穏かなのに、せわしくなく吹き付けてくる潮風はけっこう強くて、ただ風にさらされてるだけなのに、心臓がバクバクしてくるのが面白くて、千尋さんの名前を呼びたかっただけなんだ。
そんな俺の気持ちがわかってるみたいに、黒のコートに手を突っ込んだ千尋さんが笑って返事をして、ラフな黒髪が風に揺れてる。
「本当は、紅葉を見に行こうかと思ったんだ」
あ、それも、素敵かも。真っ赤な紅葉を背にした黒づくめのこの人はきっとたまらなく魅力的だったよ。
「でも、人が多そうだったからな」
うーん、それは、危ないかも。人が多いってことは、それだけこの人を見つけてしまう人も多いってことで、見惚れちゃう人が増えてしまうから。
「海にした」
「……はい」
うん。俺も海がよかった。この人とは比べ物にならないほど少ないけれど、デートで季節外れの海なんて素敵な場所に来たのは初めてだけれど、うん……海がいいよ。
「寒いのか?」
「い、いえ」
「お前、子ども体温だから熱がりなのかと思った」
「俺、体温高いんですか?」
あぁって頷きながら、ふわりと首に巻きつけられるストールは本当に本物のカシミア。首筋に触れるとものすごく気持ち良くて、この人の唇が触れる時の感触を思い出させる。
「あぁ、高い」
こんなところで、この人としたセックスを思い出してしまう。
「暑がりじゃないにしては薄着だな」
今、身震いしたのを寒さのせいだと思った千尋さんはストールを少しきつめに俺の首に巻きつけた。
違うよ。
震えたのは、寒さのせいじゃないよ。寒いけど、そうじゃなくて、貴方が全身にしてくれたキスを思い出してたんだ。体温が高いなんて言うから、俺の体温と千尋さんの体温が混ざるようなシーンを想像しちゃったんだ。
「環」
「?」
そっと手を繋いで、ゆっくり引き寄せられて、背の小さな俺は貴方の腕の中にすっぽり包まれた。背中を折るように前にかがんだ千尋さんのくれるキスはやっぱりカシミアみたいにあったかくて優しくて、気持ちがイイから、また腕の中で震えてしまう。
「……ン」
紅葉にしなくて大正解だ。
「夜まで、我慢、だな」
こんなキス、紅葉を見ながらきっとしたくなっちゃうだろうけれど、人がわんさかいるなかではさすがにどんな王様でもできない。
「靴脱いで、水の掛け合いでもするか?」
「っぷ、そんなん、しません。寒いし風邪引きます」
「じゃあ。波打ち際でかけっこか?」
「あの、それ少女漫画シチュとして少しベタすぎて古さすら臭うんですけど」
「お前のそういうとこ、好きだわ」
抱き締めてくれた腕が離れてしまって寂しいけれど、でも、手は繋いだまま、千尋さんのポケットにお邪魔させてもらえた。抱き合うのをやめた途端、真っ先に潮風が吹き付けて身体を冷やそうとするけれど、でも、俺はあったかいまんま。
「すげぇ、好き」
カシミアのストールと、ポケットと、千尋さんのさりげない告白でニットとカーディガンだけの俺は、きっと今、ちょっとあったまりすぎた子どもみたいに真っ赤になってると思うんだ。
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