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第28話 なんて大馬鹿野郎なんだ

「専務がお仕事サボってるって見つかったら、あの三兄弟が大喜びしちゃいますよ?」  どこに行っちゃったんだろうって思った。いつも使っている休憩所にも、食堂にもいないから探し回っちゃったじゃないか。こんな資材庫の前にある、少し埃臭い喫煙所にいたなんて。 「……環」  あ、でも、ここの自販機、他のところと品揃えが違う。タピオカ入りココナッツコーヒー……って、美味しそうな気がしなくもないけど、でも、あのタピオカが缶に入ってるの? ゴロンボヨンって出て来るのかな。ちょっと、スーツの身としては零しそうで微妙な感じ。 「試作品、ひとつできたんで、確認してください」 「……」  千尋さんはじっとこっちを見つめてた。まるで、眩しいものでも見上げるように少しだけ目を細めて、普段から口数は多い人じゃないけど、でも、なんだか、気持ちが沈んでいるように感じる。 「今夜、お父様に、俺、会うんですね。ちょっとドキドキする。っていうか、社長ですよね? 面接んときもいなかったから、社報でお顔を拝見したことはあるけど。って、俺の就活面接の時、千尋さんいました? すみません。俺、緊張してたのかな。千尋さんがいたら、絶対に覚えてそうなのに」 「環」  千尋さんが俺の頬に触れる。これ、好きなんだ。掌で撫でられるのも好きだけれど、指の外側の面でさ、関節んとこでちょっとだけ掠めるように触れるの。すごく穏やかで、骨の感じがさ、この人のぶっきらぼうな優しさによく似てて。とても大事にされてるって、感じられる。 「今夜、社長の家に行くのは俺ひとりでいい」 「……ぇ? でも、ふたりでって」 「あぁ」  試作のほうは順調だ。三兄弟はとてもじゃないけど、社長っていうか、人の上に立っていい資質なさそうだし、あれじゃ、どう見たって社長になんてなれないよ。婚約者としての俺が、同性だけどさ、いるんだし、もうこの段階で次期社長として決定なんじゃないかなって。 「お前は行かなくていい」  そう思ってたんだけど。 「え……なんで?」  だって、社長になるには結婚してないとダメなんでしょ? それが条件だって言ってたじゃん。この新ブランドの企画は新社長就任の時のきっかけになるってだけでさ。もうほぼ決まってたんだ。たったひとつ、花嫁っていう課題を残して、あとは順調だったのに。  その課題だった、花嫁の俺が行かなかったら、ダメ、でしょ? 「お前、わかってないだろ」  わかってます。貴方が社長になるためには、この花嫁っていう条件をクリアしないといけないって。 「あの人は俺とお前を呼んでる」 「だから!」 「もうお前のことは、あの三兄弟以上に調べてるだろ。自社の従業員なわけだし。あの人は食えない奴だ」  そして、千尋さんが重たい溜め息をひとつ吐いた。この人のお父さんではあるけれど、俺の父親みたいなそんな感じじゃ、ないんだよな。たぶん。千尋さんは社長の愛人の子どもで、そんで、一緒には暮してなかった。千尋さんを実質育てたのは、あのウエディングドレスを着たポスターの女性だ。自分のためのドレスは着たことのない、仕事でしかその白を纏ったことのない千尋さんのお母さん。 「俺の母親のこととか、自分の子ども時代のことなら、もう消化してる。そこじゃない」 「……ぇ」 「きっと、俺が適当に見繕った男を相手役にして、適当にこの場だけそれで収めて、後々、うやむやにするってところまで読んでたはずだ」  ソファに腰を下ろしていた千尋さんがゆっくりと顔を上げた。いつもは見ることのない、彼を見下ろす角度、彼が俺を見上げる光景。 「花嫁なんて条件を出したのはあの人じゃなく、その上の代、祖父だ。祖父が遺言で正式のそれを綴ってるから、仕方なく、あの人もそれに従ってる」 「……はい」 「あの人が用があるのは、お前だ」 「え?」  たぶん、最初のまま、つまりは俺は本当にただの花嫁役でしかないのなら、用なんてなかった。いつかはその芝居を終えて舞台から降りるだろうから、気にもしてなかった。ただ、あの三兄弟よりも能力のある人間が会社を継いでくれさえすれば、それでよかった。  けれど、状況は変わってしまった。 「俺が……千尋さんのことを、本当に好きに、なった、から?」 「あぁ、きっとあの人にとっては邪魔だろう」 「!」  舞台の上で演じてるだけなら楽しめたのに、そこで本当に暮らし始められてしまった。しかも、自分が一番大事にしている「ムトウブライダル」という舞台の上で、だ。それは邪魔でしかない。 「お前のことが急に邪魔になったんだ」 「……」 「だから」 「そんなの! わかってたことじゃないですかっ」  社長が能力のある人材として千尋さんを会社に引き入れた。愛人の子だろうがなんだろうが、社長の資質を持っているかどうかだけを見極めて、千尋さんを選んだ。 「お前はわかってない。あの人にとって一番大事なのは会社なんだよ。愛してない女だろうが、会社のためになると思えば笑顔で結婚して、三人も子ども作って、そのどれもが自分の気に入る才を持ってないとわかれば、次は愛人だ」 「……」 「そんな奴なんだよ」 「俺は平気です」  なんで? それだけ千尋さんは認められてるじゃんか。その会社のためだけっていう、一点で人を選ぶのなら、それは実力主義なだけじゃん。俺は信じてるよ。千尋さんにはその実力があるって。 「平気じゃない」 「なんでっ」 「今夜、社長に会えば、お前は俺の嫁になるってことだ」  その意味がわかってるのか? って、尋ねられた。男なのに花嫁になる。同性愛者じゃないのに、社長に挨拶をしてしまったらもう「フリ」では済まされない場所に立たされることになる。そして、そこに立ったらもう逃げ場はなくなる。後戻りはできなくなるんだ。家族に話して、友人にも告白して、もう二度と女性とは付き合えなくなる――って、千尋さんが、言った。 「なんですか……それ」 「……」 「逃げ場って! なんですか!」 「環」  なんだよ、それ。逃げ場って、俺、何? このあと、逃げるの? フリじゃ済まされない立場って? 後戻りってなんだよ。 「千尋さんはっ! ……俺が言った好きをそんな薄っぺらいものだと思ってたんですか?」 「環」  俺の好きは一時の風邪みたいなものだと思われたのかよ。しばらくしたら落ち着いて、熱も下がって、元通り、みたいなものだって。今だけ、千尋さんのことが好きになった。でも、ゲイじゃないから、いつかは我に返って? なんで、男なのに男の人好きになったんだろう? って、不思議に思うとでも? 後悔するとでも思ってた? 「本気じゃないって、そう……思ってたんですか?」  悔しかった。俺の好きはそんな小さく思われてたんだって、ママゴトみたいな、子ども同士が愛の誓いごっこでもしてるみたいな、そんな程度に、この人には思われてたんだ。 「環、お前は」 「また! わかってないって言うんですか?」 「……」 「わかってないのは、千尋さんだっ」  悔しすぎて、涙が出てくる。 「環っ」 「俺、怒ってます!」  だから、近寄らないで。今、本当に、すごく貴方に怒ってるんだ。涙をスーツの裾で強引に拭って、それでも溢れてくるから、今度は唇をきつく噛んで、目の前にいるわかってない馬鹿野郎を睨んでやった。 「貴方に告白した好きは、そんなに柔じゃないし、ペラペラでもないし、今だけの風邪じゃない」 「……」 「薬飲んだくらいで治る風邪なんかと一緒にしないでください」  ちっともわかっていない大馬鹿者を睨みながら「今夜、俺は何があっても、どんなことが待っていたとしても、絶対に社長のところに伺いますから」って、言い放って。その場を離れた。少しでも怒ってるんだって伝えたくて、足音ができるだけ鳴るように力強く足踏みして、できるだけ強く見えるように背筋を伸ばして、埃っぽいそこを後にした。 「…………何やってるんですか」  そして、いきなり聞こえた、慌てた様子の足音と、カチャカチャとドアノブを握り締める音。 「小早川さん」 「あー、あははは。あは」  そこには逃げ遅れたマーケティング担当の小早川さんがいて、苦笑いを零していた。

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