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第33話 初恋
馬鹿ってたくさん言われたのに、言われる度に心があったまった。怒られたのに、睨まれて、肩をもげそうなほど掴まれたのに、掴んでくれた千尋さんの手がとても嬉しくてたまらなくて、涙が零れた。
抱き締めてくれた。馬鹿で仕事なんてできなくて、何の役にも立たない俺のことを抱き締めてくれて、零れた涙が高級スーツを濡らしてしまうのに、そんなのかまわないって怒られて、また、馬鹿って言われた。
今日、デザインやらないといけなかったけど、でも、俺にできることなんてない。
「お茶か? コーヒー?」
こんなベソっかき、会社にいないほうがいい。雰囲気最悪になるだけ。
「あ、いえ……あの」
この人の隣にも。
「……すみません」
「……なんで、謝った?」
この人の部屋は静かで、低い声がふわりと空気を、嗚咽するくらいにべそをかいた俺を落ち着かせてくれる。
「なんもかんも、にです」
俺がデザインをしたから。ううん。新ブランドのコンセプトを俺が決めたから、汎用なデザインしか作れない。難しい、商売には不向きなテーマを提案したから、だから、ごめんなさい。社長に「ダメ」だと言われてしまうような結果にしてしまって。
「成木が言いに来た」
「……」
「お前が、何か迷ってるようだって」
成木さんが?
「だって」
迷うよ。全部の選択を俺はするべきじゃないって思うでしょ。
「俺が提案したんです。あのコンセプト」
「あぁ、そうだな。俺もそれに賛成した」
「そしたら、向こうみたいな最先端のデザインで安価なものはできない。どこか汎用的な靴になっちゃって。その靴のデザインだって、俺がアレコレ提案したんです! そしたら、ダメって! そういわれたじゃないですか! 社長にこれじゃ、ダメ、って! 全部がっ」
「でも、俺は、あのパンプス好きだ」
「っ」
その一言があったかくて、また胸に染み込んでいって、そして、ほどけていく。ほどけて柔らかくなって、伝えてしまう。
「デザインするの、正直怖いです」
自分の声が不恰好なほど震えてた。怖いんだよ。だって、次はもうラスト。ねぇ、俺のデザインが、俺の選択が貴方のこれからを台無しにするかもしれないんだよ? どれが最善かわからなくて、すごく怖い。
千尋さんがいれてくれた牛乳をたっぷりのコーヒー。ふわりと漂う湯気に染み込んでるコーヒーの香りが今、俺の中にある恐怖を柔らかく解してくれようとしてる。
そのひとつを部屋の中に棒立ちになっている俺のいる方へ向けて、飲め、とガラスのテーブルの端に置く。そして、自分はソファに深く腰を下ろし、目を細めて、マグカップの縁を見つめてる。
「もう随分前から片想い、してたんだ」
「……ぇ?」
片想い……って、今、言った? どうしたの? 急に。それに、誰に片想いを?
「お前に……」
そう低い声で囁いて、顔を上げ、真っ直ぐ俺を見つめて数秒のち、視線を手元のコーヒーにまた向けた。
「お前が好きになってくれた、俺の母親がモデルを務めたポスター」
ホテルのブライダル宣伝に貼られていたポスターだ。ウエディングドレスを着たとても綺麗なモデルさんが大きな口を開けて、楽しそうに笑いながらドレスの裾を掴んで走っている写真。笑顔が本当に素敵だった。あのポスターがなかったら、俺はこの仕事に就かなかった。
「お前がそれを見ていたところを、俺は、見てたんだ」
「……え?」
「あの場に、いたんだよ」
照れ臭いのか、千尋さんはクシャッと笑って、俯いてしまう。
「俺も、あの日にいたんだ」
「……」
「将来、俺を跡継ぎに考えてるって、言われて頭に来たんだよ」
愛人だかなんだか知らねぇが、どうして母親ばっかきつい思いをしなくちゃなんねぇんだよ。ふざけんじゃねぇ。金で解決させたような男なんか親だと思ったことなんて、これっぽっちもねぇよ。本妻との間に作った子どもどもが馬鹿ばっかだった? 俺を跡取りにしたい? はぁ? 冗談だろ。誰がなるか。クソ。
ブライダル? 愛人を作るようなろくでもない男がそんな仕事してるって? 破産でもなんでもしろ。潰れちまえ。知るか。
そんなむしゃくしゃした気持ちを抱えながら、同級生と駅前をぶらついていた時、ホテルの前を通った。自分のポスターが飾られていると、母が嬉しそうに話してくれたホテルの前を。
気がついたら、そのポスターを目指してた。ちょうどいい。今から、結婚式をやっている奴らの前で、その靴を作った会社の社長は愛人作って、俺みたいな隠し子がいるようなろくでもない奴なんです。その愛人の子どもを利用しようとしてるんだって言って暴れてやろうと思った。なんでもいい、この会社のイメージダウン、あのくそったれの傷に少しでもなればそれでいい――そう思ったんだと苦笑いを浮かべながら、千尋さんが小さな声で教えてくれた。
「ポスターを破り捨ててやろうと思った」
「……」
「でもそこには誰か立ってた」
柔らかそうな髪に、柔らかそうな頬、幼さが残るガキが、笑顔で走る花嫁のポスターの目の前で目を輝かせていた。
「ほっぺたをピンク色にして、ずっとそれを見つめ、少し笑ってるそいつを眺めてたら、あんなに捻れて痛いほど怒り狂ってた胸のうちが柔らかくなったんだ」
「……」
「あの横顔を見て、破くのをやめた。そして、あんなふうに誰かの瞳を輝かせる仕事をしたいと思った」
ポスターを見つめ、そのモデルの零す笑顔みたいに誰かをさせられたらって思った少年と、その少年の輝く瞳を見て、仕事を継ごうと思った少年。小さく芽吹いた片想いだった。もう会うこともないだろう、実ることはきっとない、とても小さな想い。
輝いた瞳、少し笑っているように見える口元、目に焼きついた横顔はずっと心の中に居座り続けてた。そして、二年前の冬、突然、目の前にまた現れた。
「俺は面接官でもなんでもなく、その時、ちょうど父親である社長に呼ばれた帰り、廊下ですれ違ったんだ」
「そんな、俺、覚えてない」
「だろうな、めちゃくちゃ緊張した顔してたから」
二度目の出会いは廊下ですれ違うだけのものだった。初めて会った時、その人は、ポスターの笑顔に感動したように薄っすらと開いた唇が幼げだったのに、その日は緊張にきゅっと真一文字に結んでいた。輝いていた瞳には不安と緊張が入り混じっている。
「でも、お前だってすぐにわかったよ。そのあと、お前が面接で何を言ったのかをきいた。配属された場所も知ってたよ」
「……」
「笑顔を作る、そう話したことを知って、俺は、俺が社長になるとして、その隣には、お前がいて欲しいと思った」
「!」
笑顔を作れる靴を、あの日、ぐしゃぐしゃに荒れていた胸を穏かにしてくれたただのひとりの人だから。
「お前以外なんて、考えられなかった」
「っ」
「俺を救ってくれた、お前以外なんて」
千尋さんの言葉がひとつひとつ、俺の中に染み込んでいく。
「知ってたか? 俺の初恋はお前だよ」
嘘、みたいだよ。もう、なんでいつも貴方は急なんですか。……そんなの今ここで言われたら、涙が止まらなくなるじゃんか。
「そんな、だって、成木さんが言ってたし」
「あ? なんて言ってたんだよ」
「も、モテるって。相当モテるって」
「知るか」
横柄な王様みたいな返事をするくせにさ。
「お前にしか惚れてねぇんだから」
ヤの付くお仕事してそうなのにさ。
「知らなかっただろ? あの台風の日、くそ緊張してたんだからな」
人のことの脅して花嫁役やらせたくせに。
「ずっと、お前の旦那役やれるって、テンション高かったんだからな」
こんな優しい声で、こんな優しい顔で、あったかい手で包まれたら、嬉しくてベソ泣きがひどくなるじゃんか。
「ずっと……好きだった」
「っ」
嬉しくて、涙が止まらなくて、高級スーツにしみになっても、それは千尋さんのせいなんだから俺のせいにしないでよねって、抱き締め返しながら呟いていた。
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