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第34話 そんで、そんで

 信じられないよ。千尋さんの初恋が、俺、だなんてこと。 「……環」 「っ」  溢れる涙を千尋さんの唇が拭ってくれた。瞼にそっと触れてくれるキスに心が蕩けてく。世界一優しいキスを瞼に、額に、頬に、唇にくれるこの人の、初恋は――俺。  台風の日、体当たりして振り返った千尋さんを見て、俺、ヤのつくお仕事の人だと思ったんだ。そんな怖い顔してたのに、初恋の人に会うって緊張してたなんてさ。あ、でも、うん。 「環?」  うん。なんか、ふっと着地した。 「どうした?」  急に力を込めて抱きついた俺に千尋さんが少し戸惑ってた。  なんかね、思ったんだ。だって、人のこと脅して花嫁役にするくせに、いつだって優しくて、俺のことを見ててくれた。靴擦れのことなんて本人すら忘れてたのに、痛そうにしてたからって、湿布と絆創膏を買ってきて、仏頂面で診てくれる。成木さんたちの中に入れず戸惑う俺をフォローしてくれて、一緒に飯食べてくれてた。  米。  ほっぺたにくっついた米を食べられて、びっくりしたんだから。 「環? 何笑ってんだ」  ナチュラルに食べるから、こっちは大慌てでうろたえてたんだからな。 「なんでもないです」 「……ホントかよ」  思い返せば全て、ひとつひとつにこの人の片想いが滲んでいる気がした。ずっと、この人に俺は好かれてたって、今、知ってたまらない気持ちが溢れて、困るから、そんな気持ちにさせた人にしがみつくことで誤魔化した。  ぎゅっと抱きつくとすごく落ち着けて、足元がしっかりする気がする。 「本当です」  あんなに心細かったのに。 「環」  この人が隣にいてくれるだけで楽になれる。寒かったところがあったまって、ゆっくり柔らかくなっていく。  俺が、本当にこの人とずっと一緒にいられたら、こんな幸せの中にいられるのかな。のんびり四季を感じながら笑ったり、泣いたり、イライラしたり、その全部をこの人と一緒に、歩んで。 「…………」 「環?」 「……ぁ、あの」  俺のデザインは社長に納得してもらえない。ダメデザインで、それじゃ新ブランドは作れないから、俺は何もしないほうが。 「どうした?」 「あ、いえ、あの」 「気にするな。言えよ」 「……あの」  千尋さんがじっとこっちを覗き込んだ。次に俺の告げる言葉をしっかり受け止めるために、待ち構えていてくれる。  何も言わないほうが良いんだ。俺はセンスないから。でも。 「あの、散歩」 「……」 「散歩みたいに、靴を」  わけわかんないよね。俺も、急にそんなの言われたらポカンってすると思う。でもさ、靴ってその人を支えるんだ。  ばあちゃんが最初に俺に答えをくれてた。  靴はその人を支えてくれる物。楽しいことがある日も、悲しいことが起きた日も、嫌なことがある日も、靴を履いて出かけるんだ。  どんなに服がお洒落だったとしたって、靴がズタボロのスニーカーじゃさ。その逆で、お洒落なパンプスだったら外に出るのが楽しくなるかもしれない。笑って友達に街中で再会できるかもしれない。  今日は頑張らないと! っていう日に歩きにくい靴じゃ、きっと頑張れない。歩きやすく、走りやすい靴だったら、きっと自分が思っていた以上に頑張れる。  だから、ばあちゃんは結婚式っていう良い一日を過ごさせてくれたムトウブライダルのパンプスに感謝してた。  ファン、だった。 「散歩ですってば!」 「……は?」 「年代なんて気にするからいけないんですよ!」  そうだよ。おばあちゃんだから、若いから、そんなの、個人じゃんか。結婚式は着物でやるもんでしょ、じゃないよ。俺のばあちゃんはずっと着てみたかったウエディングドレスを着た。着たいものを着て、その日一日を最高の思い出にしたんだ。その手伝いをムトウブライダルの靴がした。  忘れてなかったけど、忘れてたんだ。靴ってさ。 「歩くためのものなんです! だから、歩きやすくて、そんで、そんで」  えっと、って言葉が止まる。っていうか喉んところでつっかえる。頭の中で走り回るたくさんのデザインの欠片がせわしなくて、あっちこっちで沸き起こってきては、他の欠片たちと一緒になって頭の中で踊るからわけわかんなくて、言葉が追いつかない。 「待ってろ」  千尋さんが紙とシャーペンを持ってきてくれた。俺の頭の中が今、ものすごく忙しないことになってるって、ずっと見守っていてくれるこの人は察して、両手を大きく広げて抱きとめてくれるんだ。どんなでも受け止めてやるからって、俺を走り回らせてくれる。 「ほら、環」  どうして俺なんかをって何度も思ったよ。こんな実力のない奴を右腕にしたいなんて。変人じゃん。もっと他にセンスがあって、才能があって、優れたデザインを作れる優秀な人材はたくさんいる。 「ありがとうございます!」  でも、同じものを、同じ理想の靴を俺たちは持っているんだ。あのポスターが繋げてくれた輝きを信じてる。 「ねぇ、千尋さん」  描き始めたデザインから目を離し顔をあげると、千尋さんが冷えてしまったコーヒーを淹れ直そうとしてくれているところだった。 「ずっと、一緒にいさせてくださいね」 「……」 「俺たちの理想はきっと実現させますから」 「……あぁ」  俺って、ホント、馬鹿だよね。貴方が新社長になれなくなるなんてこと心配したりして。無理だよ。ムトウブライダルの目指したものを忘れてる俺の作った靴じゃ、そりゃ社長は頷いてなんてくれないよ。 「一緒にいてくれないと、俺が困る」 「?」 「泣いてるお前を押し倒す気満々だったんだ。あとで、責任取れよ」  千尋さんが眉を八の字に下げて、苦笑いを零した。 「はい! 水曜が終わったら、たくさん」 「は? 水曜?」 「はい。水曜です」  そりゃそうじゃん。時間はないんだ。デザインいっぱい考えて、成木さんと改めてミーティングしてダメだしたんまりもらって、試作を作って、写真撮影。出来上がったパンプスを、今度は小早川さんに手伝ってもらって、しっかり試着して、履き心地を確認して。そして、水曜にお披露目だ。 「そしたら、たくさん、一緒にいてください」  水曜が終わったら、いっぱい一緒にいてください。結果は、信じてるから。俺と千尋さんが思う理想の靴を信じてるから。

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