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第35話 けんけんぱ、パッセッジョ

 散歩ってさ、たくさん歩くから楽な靴がいいじゃん。スニーカーとかでしょ? でもそのくらいたくさん歩くことってけっこうあるんだ。お洒落して、友達とおしゃべりしながら買い物したり、デートで水族館行ったり、そんな場面でも散歩みたいにのんびりと足の靴擦れなんて気にせず、いっぱい遊べる。  その日一日を最高にしてくれる、そんな靴。 「う、うーん。名前ねぇ……さんぽ? ウォーキング? あたっ!」 「健康サンダルじゃねぇんだぞ」  本社で自分のデスクに齧りつきながら唸っていたら、頭にポンって落っこちてきた拳。見上げたら、千尋さんが苦笑いを零してる。 「だって、千尋さんが決めてくれって言ったんじゃないですか」  新ブランドの名前を。  できたんだ。土日、千尋さんに据え膳だってブーイングされながら、デザインをアホみたいに考えて、それ抱えて出社した。  デスクで少しだけ暗い表情をしていた成木さんがバタバタガサガサ騒がしく登場した俺を心配そうに見上げてた。この週末、すごく心配させたんだと思う。金曜の俺は確かにビビリまくってて、今すぐにでも逃げ出しそうだった。実際、逃げたくて仕方なかった。自分のことが何より、誰より信じられなかった。  俺はものすごく大慌てでケースに入れてずっと抱えていたデザイン案と一緒に成木さんのところに飛び込むように駆け寄って、そっから一日中ダメだししてもらった。  マジで、一番きっつい言い方でいいんで、遠慮なしでお願いしますっ! って、決闘でも始まる勢いで頼んで、ふたりで泊り込みの勢いで個室に篭ってダメ出しの連打を食らった。いくらでも大歓迎だよ。それで理想の靴に近づけるのなら。  そして、今日は成木さんとふたりで形にしたデザインたちを思い浮かべながら、俺は今、散歩のカッコいい言い方を……ちっとも思いつかないんですけど。 「にしたって、ウォーキングってなんだよ」 「よ、横文字にしたらカッコいいかなって」 「横文字って……なぁ」 「わからないですってば! 俺、センスが!」 「パッセッジョ、っていうのは?」 「小早川さん!」 「散歩、でしょ?」  耳に髪をかけながらフワリと微笑んだ彼女の腕には新作のパンプスが一足。外で撮影してくるって、加納さんと一緒に出てたんだけれど。 「は、履き心地! どうでした?」  散歩の時にだって使えそうなそんな靴にしたいんだ。買ってすぐに履くと靴擦れになっちゃうような靴じゃなくて、買ったその日から心地良く履ける靴にしたい。だから、履き心地はデザインと同じくらい大切なんだ。ムトウブライダルの靴がそうやって花嫁達の手伝いをしてきたように。 「あのっ痛いとことか」 「…………ばっちり」 「!」  小早川さんがちょっとだけ意地悪をして答えを焦らしてから、片手で丸印を作り、そう言ってくてた。 「マジですか!」 「うん。痛くないし。けっこう歩いてみたんだけど、すごくフィットしてたよ? かかとのところがパカパカするわけじゃないしね。ぐらつくこともなかったし。痛いなんてことも皆無。いくらでも歩いていける気がする」 「……」 「だから、パッセッジョ。リズムも跳ねる感じで軽やかだから、合ってる気がしない? ほら、ケンケン、ッパ、みたいなさ」  子どもの頃の遊び。ヒールなんて知らない小さな子どもの頃の。 「パッセ……ジョ」 「うん。そう」  まるで散歩でも楽しむように、貴方の一日を最良の日へと変えていく靴たち――パッセッジョ。 「いいかもです!」 「ただいまぁ。はぁ、疲れた」  成木さんがちょうどそこに戻ってきたから、新ブランドの名前を伝えた。パッセッジョ、散歩って意味なんだって。 「うん……うん! いいと思う」  成木さんが一度胸の内でその名前を唱えて、じっくりと音を感じ取ってから、もう一度、今度は深く頷いてくれた。  小早川さんと一緒に外に出ていた加納さんは静かに頷いて、笑ってくれる。提案した小早川さん自身はもちろん頷いてくれて、そして、千尋さんは。 「あぁ、気に入った」  王様は満足そうに笑って、少し挑戦的に唇の端を吊り上げていた。  靴のデザインをしたいって学校の進路で言った時、周囲の人は皆、目を丸くした。どうしていきなりそんなことを? って思ったはずだ。それまでデザインだったり、ファッション関係にすごく気を使っていたわけでもない俺が突然叫んだ進路の道筋だったから。  たったひとり笑って頷いてくれたのは、ばーちゃんだった。頑張りなさいなって笑って、そして嬉しそうだった。  会社に入ったら、もうダメ出しの嵐。そしてダメな自分を痛感するばかりの日々。新入社員の俺はドレスシューズで一日中ふわふわの絨毯の上を走り回って、靴擦れと足のむくみでしんどかったっけ。  センスはない。仕事も失敗ばっかり。でも、嬉しかったんだ。自分があの日見上げたポスターの中の笑顔、あれを自分が作れるのなら、ばーちゃんみたいに笑って素敵な靴だったのよって、誰かに自慢してもらえたらって。ウエディングの現場で働けたの、迷惑いっぱいかけたけど、好きだった。  まだまだだけど。俺一人じゃ何もできないけれど。  デザインを一緒に考えてくれる成木さんがいて、少し離れたところからフォローしてくれる小早川さんがいて、もっと離れたところで見守ってくれて、俺たちが作った靴を何より最高に見せびらかしてくれる加納さんがいて、俺の隣には。 「千尋さんっ」  この人が。 「待っ、ちょ、わっ、わわわわっ」  いてくれる。 「危なっ……ンぶっ」  大事に抱えていたデザイン画に試作のパンプス、両手に荷物を抱えていた俺は、バサバサと激しい音を立てる紙袋に気を取られて、絨毯になんでかつまづいて。  大きな背中に激突した。  まるで少女漫画の冒頭のように。 「おい、いてぇな……」  体当たりされたその人は……うん。めちゃくちゃイケメン。強面だけれど、ヤの付くお仕事してそうだけれど、でも、世界一優しくて、誰よりも俺を大事にしてくれる人。 「なんで笑ってんだ。環」 「だって」  激突してしまった相手は、将来、俺の旦那様になる人だった、なんてさ。まるで少女漫画のようだよね。 「だって、あの時、千尋さん、めっちゃぽかんとしてた」 「は? してねぇよ」 「してたしてた。すっごくしてました」 「してねぇって」  突然現れた、初恋の人にときめいて、胸の内に巻き起こった風に驚いた顔してたよ。 「してました」 「しつこいぞ」  だって、貴方の耳が真っ赤だからつい、突付きたくなったんだ。たまには旦那様をからかってみたくなったんだ。貴方のどんな表情にだって俺はいつもときめいて、胸の内で恋の風が巻き起こってせわしないんだから、たまにはいいでしょ? 「ほら、新ブランドプレゼン、行くぞ」 「……はい!」  貴方と、成木さんと、小早川さんと、加納さんと、パッセッジョ、散歩のように軽やかに前へ進もう。 「行きましょう!」  

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