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第3話

「よもや、誠にこの城に居着いてしまうとは……信じられぬ」 「全くでございますね、ランドルフ様」  城内の様子を眺めながら、魔王は思わず呟いた。傍らのアルバートも、苦笑いを浮かべつつ同調した。  どうせただの戯言だろうとたかをくくった魔王は、そんなに言うのなら雇ってやるから働いてみろ、と言ったのだ。そしたら勇者は、本当に魔王城で働くようになってしまった。最初は敵視されていた勇者だったが、明るく朗らかな言動からいつのまにかすっかり馴染んでいた。  掃除をしていたのか侍女長と話していた勇者だったが、魔王の姿を認めると、飛ぶようにこちらに駆け寄ってきた。 「魔王ーっ! 今日はいつにも増して美しいね! その美しさはどんな花にもどんな宝石にも引けを取らない! 魔王の美しさはまさに奇跡だよ! 俺は魔王を愛している! だから結婚してくれ!」  言いながら勇者は、魔王の目の前に跪き、何もないところから魔法で一輪の赤い薔薇を生み出した。 「毎日毎日よくやるねぇ、勇者!」 「当たり前! 俺はこの世の何よりも魔王を愛してるから!」 「魔王様、ご結婚はいつなさるので?」 「一生せん」 「そーんなつれないこと言わないでよ魔王ぅ」 「卑しき手で余に触れるな」 「またまた、照れちゃってさぁ」 「照れてなどおらぬわ愚か者めが」  魔王が勇者を冷たくあしらっていると、あははと朗らかな笑い声がそこかしこから聞こえた。二人のやりとりを楽しみにしている者が多いと魔王は聞いたが、未だに何故なのか理解ができなかった。 「薔薇は受け取っておいてやろう。が、結婚は一生せん。諦めるが良い」 「俺は絶対諦めない! 今の俺は魔王のために生きてるんだから!」  相変わらず鬱陶しい――そう思うと同時に、勇者の求婚を心待ちにしている自分にも気付いたが、勇者を面白がっているのだろう。勇者に心惹かれているのでは、断じてない。 「なあなあ魔王! ここにいる、ってことは今日は暇? 特に仕事ない?」 「ああ、特に……いや、書類の整理をしなくてはならなかったな。余は忙しい。即刻立ち去れ」 「えぇ、魔王とゆっくりお話したかったんだけどなー、駄目?」  断固拒否しようとした魔王だったが、不意に勇者と出会ったばかりのことを思い出した。  ――俺が勇者になって魔界に来た一番の理由が、あのくそったれな世界から逃げ出すためだからね。俺にとっちゃ、魔界に来ることそのものが目的だったんだ――  仮にも勇者である者にそこまで言わせる人界とは、どのようなものだったのか、興味が湧いた。だから魔王は迷った挙句、こう吐き捨てた。 「余に指一本でも触れてみるが良い、その時がお主の最期だ」  勇者はぽかんとした顔で魔王を見ると、次の瞬間、ぱあっと花開くような笑顔を浮かべた。魔王の横ではアルバートが、どこか寂しげで愛しげな微笑みを湛えていた。  勇者が注いだ琥珀色の液体から漂ってくる香りは、勇者が自信ありげな表情をしているだけあって確かに良い。魔王が紅茶に口をつけると、勇者がこちらを伺うように見てきた。 「……悪くない」  癪ではあったが魔王がそう呟くと、勇者は心底嬉しそうに頷いた。 「でしょー? 俺、アルバートと一緒にすっごく練習したんだから!」 「ほう、アルバートがお主にな。珍しいこともあるものだ」  アルバートは他人に心を開かない。ずっと昔から支えてきた魔王くらいにしか心を開いていないのだ。そんなアルバートが勇者にわざわざ構うなど、考えにくいことだった。  そうひとりごちると、勇者は少し不機嫌そうに魔王を見ていた。何だと問うと、勇者はわざとらしく口を尖らせた。 「魔王ってさ、アルバートのことは名前で呼ぶよね。俺のことは勇者か愚か者としか呼ばないのに」 「アルバートは最も古参の側近だ、当然であろう。そもそも余はお主の名を知らぬ」 「ジャック! 俺の名前はジャックだよ! 魔王の名前はランドルフでしょ? ランディって呼んでいい?」  勇者はきらきらと輝く目で魔王に詰め寄った。魔王は反射的に少し身を引いた。それから、勇者の何とも恐れ知らずで馬鹿な言葉に、思わず笑ってしまった。 「ふは。魔王の余を略称で呼ぶか。誠に奇人よのぅ、お主は。……好きにするが良い」 「えっ、本当に? やったーっ! じゃあじゃあ、俺のことはジャックって呼んでよ! ね、お願い!」 「検討してやろう」  魔王が適当に返答すると、勇者はそれでも嬉しそうに笑った。 「ときに勇者、余がどうしてお主を部屋に招き入れたのか分かるか?」 「とうとう俺の求婚を受け入れることに決めたとか!」 「そんなはずがなかろう、愚か者!」  魔王は一喝して、魔法で作り上げた数多くの氷の矢を勇者に向けて打った。しかし勇者はへらへらとした態度を改めることなく「あっぶね」と呟きながら掌を矢に向け、熱で一気に溶かした。そして魔法で濡れた床を乾かしてから、へらっと笑った。 「もー、危ないじゃんよランディ。俺死ぬとこだったよー?」 「お主を殺すつもりで打ったからな。当然であろう」  魔王は勇者に、並の人間なら死んでいるだろう量の矢を、並の人間なら見切れないであろう速さで打った。勇者を試すためだ。なのに勇者は、顔色一つ変えずにその矢を溶かした。  つまり――勇者は、魔王と同等か、下手すればそれ以上の力を持っている。魔王を殺そうと思えばいつでも殺せるだろう。だが、恐らく戦えば無傷とはいかない。互いに大きな痛手を負うだろう。だからこそ、勇者の言葉を信じる訳にはいかない。信用したが最後、隙を突かれて不意打ちで殺される、ということもあり得るからだ。 「お主を部屋に招き入れたのはな、お主がどうしてそこまで聖王を忌み嫌うのか、尋ねておきたかったのだ。理由が分からないのでは信用はできぬ」  すると勇者は、すっと表情を引き締めた。それから、自嘲気味に笑った。勇者のこんな暗い表情を、魔王は見たことがなかった。 「聞かれたら、答えようと思ってた。……俺ね、元々向こうの世界では、奴隷だったんだ」 「奴隷……だと?」 「そ。それも剣奴……って言ってもぴんと来ないでしょ? 何せ魔界には奴隷が存在しないしね。それで剣奴っていうのは、闘技場で他の奴隷とか猛獣とかと殺し合うためだけに生かされてる奴隷。ろくな食事も休息も与えられなくてさ、明日こそは死ぬかもしれない、って毎日びくびく怯えながらただただ生きてたんだ、俺は」  魔王には到底理解ができなかった。なぜなら魔族にとって戦闘とはある種、神聖なものだ。決して娯楽にしていいものでは、ない。 「周りの仲間はね、大体発狂したか自ら命を絶ってたよ。でも俺は意地でも生き残り続けてた。せめて一目でも違う世界を見てから死にたかったんだ。そしたらいきなり聖王に呼びつけられて、お前は勇者になるのだって言われて、その途端周りが掌を返したように俺に媚びへつらい始めたんだ。笑っちゃうよね、今まで罵声を浴びせてきたやつらが揃いも揃って勇者様ーってさ」  魔王は何と言っていいか、とんと検討がつかなかった。だから黙って促した。 「聖王を信じさえすれば救われる、って皆信じてたけど、俺は信じる気になれなかった。そりゃあね、俺をこんな目に遭わせてるのは聖王だし、信じたって救われることはなかった。毎日が生き地獄だったよ」  勇者は一つ、細くため息を吐いた。憂いに満ちた、勇者らしからぬため息だった。 「魔界は悪意で凝り固まった恐ろしい場所だ、それに比べて我らの人界は平和で美しいって聖王は常々説いていたけど、そんなことなかった。本当に悪意だらけの醜い世界だったのは、向こうの方だった」  勇者は今にも消えてしまいそうに見えた。それほどまでに、儚げな姿だった。自分で淹れた紅茶を一口啜ると、すっかり冷めちゃったな、と呟いて、魔王を見つめた。苦しいほどに真剣な瞳だった。 「――美しいよ、この世界は。俺はこの世界で初めて、温もりを知って、それから幸せを知ったんだから」  そう言い切ると、「なんて、勇者の俺が言うのはおかしいんだけどね」と茶化すように勇者は笑った。  ――魔王は勇者を見ながらふと、ある幼い少女のことを思い出していた。あれは自分がまだ、目先の欲に目が眩んで聖王と戦いを繰り広げながら領土の奪い合いをしていた頃。ある街で魔王はその少女に、足にしがみつかれたのだ。そして彼女は、悲痛な叫びを上げた。『戦いのせいで、おとうさんもおにいちゃんも死んじゃった! みんなのためなんてうそじゃない! まおうさまのうそつき!』と。  その瞬間に魔王は我に返ったのだ。自分が作ろうとしていたのは、幼子にこんな悲しい顔をさせるような世界じゃない。もっと美しくて、平和な世界だ。それには領土の広さなんて関係ないだろう、と。  彼女を見た時に魔王が感じたのは『彼女を幸せにしたい』という切なる思いだった。それと同じものを勇者にも感じたのだ。いや、それよりも強い思いかもしれない。『彼は自分が幸せにしなくては』という使命感にも似た強い思いを感じたのだ。 「当然、余が作った世界が美しくないはずがなかろう」  勇者はそれを聞いて、そうだね、と微笑んだ。酷く切なげな微笑みだった。 「……それほどまでに好いているのであれば、居たいだけこの城に居れば良い。お主は使えるからな、追い出しはせぬ」  勇者は口をぽかんと開けると、やがて「そっかぁ」と笑みをこぼした。さっきまでの切なげな笑みとは違う、いつものように明るい笑みだった。それを見たら不思議と安心してしまって、魔王はつられて微笑んだ。

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