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第56話

「それでも〝俺〟は須藤さんからは離れてはいない。過去に何があったのか気にならないと言ったら嘘になるし、貴方のことはまだ全然分かってない。それに何より明らかに裏の世界を匂わせている人間だし、絶対に関わるべきじゃない。離れるべきだと思います。でも今の俺が貴方から離れたら、なんか〝俺〟に負けた気分になるんです。可笑しいかもしれないですが、それだけは何だか悔しくて。だから貴方と向き合うと決めたからには、俺は逃げません。それに貴方が俺に謝ってくれるなんて──っ」  佑月は突然のことに驚きで息を呑んだ。 「す……須藤さん……?」  状況を整理しようと固まる佑月の身体は、須藤の腕の中に収まっている。 「たまらないな……」  呻くように言い、抱きしめてくる須藤の腕の力が更に加わる。佑月はもはやどうすべきか分からず、混乱した。その時ふと須藤から香る控えめな甘い香りが、佑月の鼻腔を擽った。密着したことにより、お互いの体温が高まり、香りが僅かに強くなる。  懐かしいような気がした。一年の間で嗅ぎなれた香りは、記憶を失っても匂いだけは覚えているからだろうか。もっと嗅いでいたい。この香りをずっと堪能していたい。ふらりと須藤の首筋へと鼻先を持って行きかけた時、佑月はハッと我に返った。 「っ……須藤さん」  佑月は須藤の厚い胸を強く押し、その腕から逃れた。  心臓が激しく打ち付けてくる。男同士の抱擁はさして珍しいものでもないが、それは時と場合による。例えばスポーツなら、チーム戦であれば得点が入った時や勝利で抱き合う事が多い。他には久しぶりの再会などで抱き合うなど。  しかし今はそんな要素はひと欠片もなかった。ただ佑月が自分の思いを話していただけだ。今のは何だったのかと、戸惑うしかない。 「須藤さんって、スキンシップが多いですよね……」  押し退けるように離れたこともあり、気まずさもあったが、須藤は特に気にしている様子はない。完璧なまでの無表情が少し怖くもあったが。 「俺はあまりこういう事に慣れてないからビックリして……。でもこれだと勘違いする人もいるかもしれないですよ」 「勘違い? そもそも他人にベタベタ触るのは好きではない。だから勘違いさせることもないな」 「そう……ですか……」  無表情に変わりないが、須藤の漆黒の目が何か熱く揺らめいているように見え、佑月は息を呑む。だがそれも一瞬で、直ぐにいつもの深い闇のような漆黒となった。  須藤の言動が一致せず、佑月の困惑は更に増していく。だがこんな風に、意識し過ぎる自分の方がおかしいのだと思うようにしなければ、この先須藤とは上手く付き合ってはいけないだろう。これが須藤の友人に対するスタイルなのだと、佑月はそう自分に言い聞かせることしか出来なかった。  あれから暫く高級車は静かに走っていたが、目的地に着いたのか、車はゆっくりと停車した。そこは誰が見ても、一般人には手が出せない大きな高級マンションの前。佑月は暫く、呆然と窓の外に映る外観を眺めていた。 「ここだ」 「あ……」  須藤の声で我に返ったと同時に、佑月はある事を思い出した。ハンドルを握っていた男が恭しく後部座席のドアを開けてくれるが、佑月は降りることを躊躇った。

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