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第57話

「どうした?」  怪訝そうに須藤が顔を覗き込んでくる気配に、佑月はそっとその顔を見上げた。目が合った須藤の眉が何かに反応するようにピクリと動くが、佑月はそれを疑問に思うどころではなかった。 「あの……須藤さんって、確か恋人がいらっしゃいますよね?」  入院中に佑月が訊ねたとき、須藤は『いる』と答えていた。しかしあの時は精神的に不安定だったこともあり、落ち着いて物事を考える余裕などなかった。今になって冷静さを少し取り戻すと、自分がいかに邪魔な存在かを思い知る。 「いるが、それがどうした?」 「いや……今さらなんですけど、やっぱり彼女さんにも悪いので、俺は近くのネットカフェに行きます」 「何を言ってる。ここに住んでるのは俺とお前だ。誰にも遠慮する必要などない。とにかく早く降りろ」  須藤に強く促される。ドアを開けて外で待っている部下のこともあり、佑月はとりあえず車から降りることにした。須藤がどう言おうが、このマンションには入らないつもりで。  待たせた部下に詫びていると、不意に後ろから右腕を掴まれた。 「え……須藤さん!」  須藤のような、逞しい体躯の男にぐいぐいと強引に引っ張られると、細身である佑月には抗うことなど出来ない。引っ張ることも出来ない己の非力さ。 「俺がいたら気兼ねなく恋人も呼べないじゃないですか。そんなの……」  突然須藤が動きを止め、佑月へと振り返ってきた。その弾みで須藤の背中へと額をぶつける。 「っすみません……」  佑月は額を押さえながら、近くなった須藤との距離に離れようとした。しかし腕を掴まれたままでは身動きが取れないでいた。  間近で見下ろされると、綺麗な顔ということもあり、迫力がある。佑月は目を逸らすように下を向いた。 「須藤さんが良くても、俺が気になるんです」  そう呟く佑月の頭上で須藤のため息が落ち、ビクリと佑月の細い肩が跳ねた。苛立たせたかと佑月は息を呑んだが、そうでないことが次の須藤の言葉で知る。 「気にしなくていいと言ってる。それに心配しなくても、今は……遠くにいる」 「遠く?」  須藤らしからぬ曖昧な言葉だ。都内ではなく他府県だからなのか、それとも国内ではないのか。あるいは物理的な距離とは限らない場合もある。佑月は思わずと須藤の顔を見上げてしまう。漆黒の目は闇のようだが、黒曜石のような美しさがある須藤の目。そこに少しの翳りを見つける。 「あぁ。だからお前とは会うこともない」 「そうですか……」  様々な事情があるのだろう。そのために、須藤は愛する恋人には簡単に会えない辛さを抱えている。須藤の心情を思うと、好意で住む部屋を提供してくれている彼に、これ以上煩わせる事はさすがに佑月も憚られた。抵抗をやめ、腕を引かれるまま大人しくついてくる佑月を認めた須藤は、その手を離した。  豪奢としか言い様のないエントランス。コンシェルジュは当然の如く常駐しているようだ。最上階全てのフロアが須藤の部屋らしく、ラグジュアリー感に溢れた部屋に通された佑月は、暫く呆然と部屋の中を見渡していた。  ソファにテーブルに、揃えられた家具がどれも一級品だと分かる。うっかりと触れて、繊細なガラス細工を割った日には……。一生かかっても弁償出来ないだろう。 「ボス、成海さんのお荷物はこちらに置いておきます」  一緒について来ていた部下が、佑月の荷物を高級ソファへと置く。そこで我に返った佑月は慌てた。自分の荷物をすっかり忘れていたばかりか、持たせていた。 「あぁ、ご苦労だった。下がっていいぞ」  佑月が肝を冷やす横で、須藤は当然といった横柄とも取れる態度で、部下に退室を促した。頭を深く下げる部下に、佑月は咄嗟に部下の前へと踊り出た。何事かと驚き顔を上げる部下に、今度は佑月が頭を下げた。 「あの、荷物を持たせたままで申し訳ございませんでした。ありがとうございます」 「成海さん、私に頭など下げないで下さい。当然の事をさせて頂いたまでです」  眼鏡の奥の冷たそうな目がフッと和らぐ。その目が嘘偽りない本心だという事が佑月に伝わり、ホッと息を吐く。  彼の名が知りたい。そう佑月が思ったとき、須藤の手が佑月の肩に置かれた。 「真山だ。俺の秘書をしている」  まるで内心を読んだかのようなタイミングだったため、佑月は驚きながらも須藤へと頷いてから真山へと視線を戻した。 「真山さん……」  佑月の男にしては紅い唇が真山の名を紡ぐと、真山の無であった表情に、僅かだが笑みが生まれた。

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