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第74話

「急だったのに、今日はありがとうね。めちゃくちゃ楽しみでさ、仕事中は早く終わってくれーって、ずっとソワソワしてたよ」  村上は楽しそうに言う。佑月も楽しみにしていた分、村上の気持ちが嬉しかった。  お任せで村上が連れて行ってくれたのは、何処にでもあるような定食屋だった。店内に入ると、初めて来たのにも関わらず、馴染み深いものがあった。それほどに気を使わなくてもよく、ホッと出来る雰囲気なのだ。 「ここの鯖の味噌煮定食が、めっちゃくちゃ美味いんだよ。脂が適度に乗ってて味付けも濃くなくて、オレは何度かリピしてる」 「そうなんだ。じゃあ、それ食べてみる」 「うん、是非是非食べてみて。味は保証する」  オレが作ったわけじゃないけどねと村上は笑い、佑月も笑う。療法士と患者の壁を越えて、気さくに話してくれる村上は、やはり気持ちのいい男だと佑月は楽しい時間を過ごしていた。  だが、その楽しい時間は突然と終わりを告げた。 「こんばんは」  二人が座るテーブルの脇に立ち、佑月を見下ろしてくる一人の男がいた。歳は四十代から五十代。  誰か分からず、佑月は思いっきりポカンとした表情を見せてしまっていた。村上は佑月と男の顔を交互に見て、誰なんだと目で訴えている。 「お会いするのは初めてですね。成海佑月さん。僕は支倉と申します。少し前までは光芸能プロダクションの社長をしておりました」  店内はさほど混んでおらず、支倉と名乗った男はにこにこしながら隣の席に腰を下ろす。  その名を聞いた瞬間、佑月の全身に緊張が走り抜けていった。手に汗がじっとりと浮く。  佑月と支倉は暫く睨み合うように、お互いの視線が外れることがなかった。  今では痛みがほぼ無いというのに、頭の傷と左腕がズキズキとにわかに痛みだす。  この男の息子が佑月の命を狙った。この男の息子のせいで、佑月は大切な記憶を失ってしまった。だから目の前にいるのが親であろうと、もっと憎しみが湧くのかと思ったが、意外と佑月の心は静かだった。  だが支倉の目的が分からないため、佑月の緊張は更に高まっていた。なにせ支倉はヤクザと濃い繋がりがある。  もしここへ、息子が仕損じた佑月を拉致するために来たとしたら。そう考えたが、それはきっと無理だろう。村上はかなり体格がいいから、何かあった時は直ぐに助けてくれるはずだ。しかも優秀な護衛も外で待機している。不可能だ。  しかしいきなりナイフを出されたら? これはいくら村上でも咄嗟に動く事は出来ないだろう。護衛がいても、駆けつけてくる間に刺されてしまえば終わりだ。  一体いつからつけられていたのか。もしかして、退院してからずっと張られていたのか。佑月は恐怖を感じて僅かに身を震わせた。 「そんな警戒しないで欲しいな。心配しなくても、今日は偶然に君を見掛けたから、声を掛けさせてもらったんだよ。それに、例えばいま君に何かしようものならば、この付近に座ってる怖いお兄様方に、瞬時に消されてしまうだろうからね」  だから何もしないよと、支倉は佑月のテーブルの周囲へと視線を流していく。釣られて佑月も周囲を見ると、支倉とは逆の隣の席と、前後の席など各テーブルに一人ずつ男が座っている。揃いも揃って屈強そうな男ばかりだ。佑月と目が合うと皆、目で挨拶をしてくるから、支倉の言う通りに佑月の護衛なのだろう。佑月一人にこんなに沢山の人員を割いていたのかと思うと、驚きと申し訳なさでいっぱいになる。

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