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第87話
「これくらいだと髪で隠れるから問題ない。もし禿げても、お前なら可愛いだろうな」
「え……なんですか、それ。禿げても可愛いって、あんまり嬉しくないですよ」
佑月が笑って言うと、須藤の目尻が益々下がっていく。なんだか急に須藤の空気が柔らかい。普段以上に表情も優しげで、佑月は少し落ち着けなくなる。
昨夜の気まずい空気を払拭しようとしているのかと思ったが、そうではないようだ。須藤は多分、その場その場の感情で動くような気がしたからだ。
だったらなぜ須藤は今、こんなにも機嫌が良いのだろうか。佑月が一人頭を悩ませていると、ふと運転する真山とルームミラー越しで目が合った。
「ボス、今朝は随分とご機嫌ですね」
「まぁな」
真山の声掛けにも、機嫌良く須藤は答える。
「そのお気持ちはよく分かります。ご様子を窺っているだけで、私もとても嬉しいので」
真山の視線が須藤から、また何故か佑月へと移る。そして眼鏡の奥の目が柔和に細められる。佑月は更に困惑してしまう。
「須藤さん、今日何かいい事でもあるんですか?」
「別にいい事などないが、今は気分がいいな」
そう返す須藤の表情はまだ柔らかい。距離も縮めたままだから、須藤が近くて佑月はどうしてか緊張してしまっていた。
「俺の付き添いで病院へ行くのに?」
「だからだ。お前がいなければ気分も良くならない」
うんうんと、運転席で真山は頷いている。なぜ佑月がいれば気分がいいのか。困惑が深まるなかで、佑月は少し嬉しいと感じている。何故かは分からない。でも自分といて嫌な気分になられるよりは、当然ながら嬉しいに決まっている。しかも須藤のようなハイスペックな男がそう言うのだから、佑月の気持ちも高揚する。思わずもれてしまう笑みを隠すのに、必死にならなければならなかった。
「どうした佑月、急に嬉しそうだな」
須藤は伸ばした手で佑月の頬を包む。佑月の顔は一瞬で熱を持った。
(うわ……バレてるし。全然ダメダメじゃないか俺……)
「……気のせいじゃないですか?」
佑月はにっこりと微笑みながら、須藤の手を外す。他人に触れることが好きではないくせに、こうして近くにいると、須藤は必ず何処かしら触れてくる。
「お前は直ぐに顔に出るからな。分かりやすい」
須藤が愉快そうに言っている傍ら、佑月はふと、あることを試したくなった。
(さすがに怒るかな……。怒らせるとかなりマズイけど。でも自分はよくて他人はダメなんて不公平だろ)
「また、何を考えてる?」
ギクリと内心ではヒヤヒヤしたが、顔には出さないよう気をつける。そして腹を決めた佑月は、勢いをつけて須藤の頬へと手を伸ばした。
「……」
ペタリと頬に吸い付く手のひら。
須藤の頬を包んだのはいいが、お互いの空気が一瞬止まってしまった。すると須藤の手が何やら少し動いたと思えば、運転席との仕切りを下ろした。
(な、なんで仕切ったんだ!? ていうか俺! この後どうするんだよー)
自分で仕掛けたくせに、佑月の頭の中はあたふたと忙しない。ただ須藤が避けて佑月の手を叩き落としたり、嫌悪感を表に出したりしていないことが唯一の救いだった。
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