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第88話
「触りたいなら存分に触れ」
須藤から予想だにしなかった言葉を掛けられ、佑月は驚いた。しかも左手も頬に持っていかれ、両頬を包む形になる。
驚かせてやりたい、やられっぱなしで仕返ししてやりたい。そう思っての行為だったが、逆に驚かされている。しかも須藤は目を閉じた。
どうして触らせてくれるのか。佑月の意図が分かって、仕方なく触らせてくれているのか。佑月は何が何だか分からなくなりながらも、男の頬に触れているのに、少しも嫌悪感が沸かない事にも驚いていた。心臓も何か誤作動でも起こしているのかと言うほどに、速いリズムを刻んでいる。
暫く固まっていると、不意に心の奥底で、佑月へと何かが訴えかけているように感じ始めた。もしかして何か思い出せるかもしれないと、佑月もそっと目を閉じた。
目を閉じると指が意思を持ったかのように、勝手に動き出す。瞼や眉毛、高い鼻筋、耳。触れていると心がぽっと温かくなる。
(なんだろう、この感じ。まるで指が覚えてるみたいな感覚になる。顔なのに……?)
記憶を失う前の自分は、須藤の顔を触る機会が多かったのだろうか。いや、颯や双子達の顔など触った事がない。ましてや須藤の顔を触るなど絶対に有り得ない。それなのにこの感覚は何なのだろう。
佑月はゆっくりと目を開けた。まだ須藤は目を閉じてくれている。端正過ぎる顔に暫し見惚れていると、突然ふらりと頭の中が真っ暗になった。
──この包まれる感じ。この香り。安心する。
入院中に見たあの夢のように、佑月の身体は温かいものに包まれていた。そこは佑月のための場所のように、すっぽりと収まり、馴染んでいる。甘い香りは更に佑月を恍惚とさせた。
「佑月……」
耳元で突然リアルな声がしたため、佑月は一驚する。
「え……あっ!」
そして何故か須藤に抱きついていることに、佑月はパニックになり、慌てて須藤から離れた。
「す、すみませんっ! 俺はなんてこと……」
自分から抱きついた記憶がない。でも須藤から抱きしめられた記憶もない。だけど夢心地で温もりに身を委ねて、甘い香りを堪能した記憶はしっかりとある。ならば自分から抱きついたということだ。
とんでもない事をしでかしてしまった。佑月は熱くなった顔を上げる事が出来ない。どうしてこんな事をしてしまったのかも分からない。突然意識が途切れたような気がしたが、その時に信じられないが身体が勝手に動いたようだ。
「佑月、ほら、顔を上げろ」
殊更優しい声で須藤は言う。しかし佑月は顔を上げられずにいた。いきなり男に抱きつかれるなど、普通引くことだからだ。
以前に須藤に抱きしめられた事はあったが、それは須藤自らの意思でしたこと。他人に触れる事が苦手なのに、抱きつかれるなど相当嫌な思いをしたに違いない。本当に自分は一体どうしてしまったのかと、佑月は頭を抱えた。
「佑月」
「すみません。本当にごめんなさい」
「顔を上げてくれないと、さすがに俺も傷つくぞ」
佑月は直ぐに顔を上げる。言葉とは裏腹に、須藤の表情は柔らかいままだ。
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