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第89話
怒ってはいなさそうだが、大人の配慮があるのだろう。気を遣わせているなと、佑月は素直に安堵できなかった。
「本当にすみません。言い訳するわけではないのですが、その……気が付いたら抱きつく様な真似をしてしまいました。不快な思いをさせて申し訳ないです」
佑月は須藤へと体を向けて、真摯に頭を下げた。気心知れた友人なら、笑ってチャラに出来ることでも、相手が須藤となるとそうはいかない。冗談など通じる気安さがない相手だからだ。
「不快に思うわけがない。だからそんなに落ち込むな。謝るな。ただ、やはり昨夜しっかり寝られてなかったから、意識も混濁したんだろう」
「え……?」
「まだ後一時間近くある。寝たらどうだ?」
思いがけない言葉に、佑月はどう返事をすればいいのか戸惑ってしまった。自分のことよりも佑月を思いやる須藤の気持ちが嬉しい反面、とことん気を遣わせた事が申し訳なく思ったからだ。
「眠気は全くないので大丈夫です。ただ……」
「佑月、そんなこの世の終わりみたいな顔をされる俺の身にもなれ。俺に触れるのはそんなに嫌か?」
「まさか」
佑月は勢いよく首を振る。スキンシップが慣れていないため戸惑うが、決して嫌だとは感じない。むしろ触れていると心の奥底が落ち着き、僅かな高揚感さえある。ずっと入院中から不思議な感覚ではあったものだが。
「ただ色々考えすぎて、こうやって須藤さんに気を遣わせていることが情けなくて」
「だからそんな事まで気にする必要などない。ほら」
須藤が突然、佑月の肩に腕を回して自身へと引き寄せた。そして佑月をゆっくり抱きしめると、背中をあやす様にポンポンと叩いてきた。
「こうすれば、公平だろ? もうグジグジ言うのは無しだ。分かったな」
まるで小さな子供を宥めるかのような扱いだが、須藤の優しさが佑月の心に刺さる。もっともっと須藤の事が知りたい。記憶を無くす前の自分よりも、須藤との仲を深めていきたい。前の佑月よりも、今の佑月の方が楽しいと思ってもらいたい。佑月はその想いを込めて、一度須藤を抱きしめる力を加えてからそっと離れた。
「須藤さん、ありがとうございます」
ほんの僅かに上がった唇の端が、須藤の表情を更に魅力的に見せる。
「いつでも好きな時に抱きつけばいい。佑月はいつも抱きついてきてからな」
「え!?」
佑月は驚愕の表情で固まってしまう。
「うそ……ですよね?」
「嘘ではない。甘えてきた時は、抱きついて離れなくなる」
「はな……」
(おい! 記憶を失う前の俺! 何してんだ!? 甘える? 甘えるってなんだよ)
佑月の顔色はおそらく赤くなったり、青くなったりと忙しいはずだ。とてもじゃないが、信じられない話に佑月が額を押さえたとき、須藤の顔が目に入った。
(……ん?)
佑月の騒がしかった心の中は、途端に落ち着きを取り戻す。
「ちょっと、なにニヤニヤしてるんですか? まさか、からかってました?」
「いや? 相変わらず色んな表情を見せてくれるなと、微笑ましい気持ちでいただけだ」
「微笑ましいって……絶対そんな良い表情じゃないです」
佑月は可笑しくてたまらず声を上げて笑った。
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