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第103話

 滝川は中に入った佑月に、気遣わしげな笑みを見せながら頭を下げ、そして帰って行った。  一日ぶりに帰ってきた須藤のマンション。生活感が全く感じられない高級品に囲まれた部屋。主のいない部屋は更に冷たく感じた。 「……あれ?」  リビングのソファに、何か細長い布地のようなものがあるのが見えた。佑月はソファへ足を向けると、その布地を手に持つ。 「ネクタイ……」  超がつく高級ブランドのネクタイ。言うまでもなく須藤のネクタイだ。  いつも須藤は、身の回りの事はきっちりと自分でする。脱ぎっぱなしや、出しっぱなしなど今まで見たことがない。 「これって……」  ボルドーに近い色のこのネクタイは、佑月が出ていく前の日に着けていたものだ。その時、フワリとムスクのような甘い香りが鼻腔を擽った。 「この匂い」  須藤に近づくといつも香る、甘く官能的な香り。香水をつけているわけじゃないのに、とてもいい匂いがするのだ。この香りを嗅いでいると、頭がくらりと蕩けそうになる。実際ネクタイに体臭が移ることは、よっぽど強い香水や、体臭でない限りあまりない事だ。それなのにほんの僅かに香る匂いが、佑月を虜にしてしまう。 「直さないとだけど、部屋だしな……」  勝手に部屋に入ることは出来ない。どうしようかと視線をさ迷わせていると、ポールハンガーが目に入った。そこに引っ掛けておけば気づくだろうと、佑月はネクタイを掛けておくことにした。  でも何故、ここに置きっぱなしになっていたのだろうか。昨夜はもしかして、須藤はマンションに帰って来ていないのだろうか。佑月は暫く考えに耽る。 「て言うか……俺が心配する事でもないか」  帰ってこようがこまいが、ここは須藤のマンションだ。自由に出来る。居候の身のくせに、詮索する権利もない。それに今は須藤の顔は見たくない。感じ悪いのはどうかと思うが、まだ気持ちの整理はついていない。出て行けたらどれだけいいか。  佑月は須藤が帰って来る前に、さっさと風呂に入ってしまうことにした。  夜中の十一時過ぎ、自室でテレビを観ていると、不意に扉がノックされた。きっと須藤だろうが、帰ってきた事も全く気付かなかった。  佑月は扉を開けず、ただじっと扉を睨む。心拍数が異様に上がるのは、緊張しているせいだ。 「佑月、本当はここを開けたいところだが、今は我慢する。だから、そこから聞いてくれ」  須藤の重い声。疲れているせいなのか、心情からきているのか佑月には判別つかない。しかし、いつもの自信に溢れた声ではない。  佑月の胸がそれに同調するように重くなり、さっさと寝ておけば良かったと後悔した。 「先日のことだが、すまなかった。だが俺は──」 「すまなかったって、何に対しての謝罪ですか?」  黙っていようと思った佑月だったが、つい怒りが先行してしまい、須藤の声を妨げてしまった。

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