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最終話

 須藤の唇が佑月の瞼に落ちる。温かい唇に佑月の心も温かくなり、涙も徐々に止まっていく。 「思い出したのなら、行くか? 水族館へ」  須藤もちゃんと覚えていてくれた。  約束した時の記憶をなくしていたのだから、須藤も仕事へ出ることだって出来た。でも佑月が覚えていなくても、須藤はちゃんと休みを取ってくれていたのだ。しかも先ほど須藤は自ら誘おうとしてくれていた。目的地は水族館ではなくても、何処かしら出かけてくれるつもりでいたのだ。これほど嬉しいことはない。 「うん……行こ。ちょっと顔を洗ってくる」  急いで顔を洗い、身支度を整えると、須藤が運転する車へ乗り込み、二人は【アクアシャイニー】へと向かった。  今日は天候にも恵まれ、最高のデート日和と言える。沢山車が行き交う都会の街並みさえも、活気が溢れて見えてしまっている。煩わしい都会の喧騒さえも、気分によっては輝いて見えるなど、現金なものだと笑えてくる。 「仁を水族館に誘うとか、我ながら凄いなぁって今更ながら驚いてる。今の俺でさえ躊躇するし、デートって考えに行き着かないからなぁ」 「もう記憶が戻ったなら分かってると思うが、何処か行きたい所があるなら、遠慮なく言え。俺は一般的なデートというものが分からんからな。お前に任せる形になるが」  佑月は大きく頷いた。 「ありがとう……」  この二ヶ月の事を思い起こすと、本当に凝縮されたような濃い二ヶ月だった。  須藤の優しい気遣いは、心から寄り添って支えてくれていたもの。果たして自分にそれが出来るだろうかと、何度でも考えてしまう。  全部一人で抱え込んで相当辛かったはずだ。現にあの須藤が体調を崩してしまったのだ。それもこれも全部佑月のせいで。  だけども、須藤は佑月のせいではないと必ず言うだろう。あの頃は、佑月の中では須藤とは恋人同士ではなかったのだから、当然だと言って。確かにそうなのだが、佑月は自分の中では信念とまではいかないにしても、どうしても譲れない思いに反発的に触れられると、相手構わず強い口調で自分の思いを口にすることがある。  あの時は村上との友情を大事にしていたこともあり、須藤が勝手な行動に出た事への怒りが収まらなかった。それは今でもそういう事をされれば、佑月は須藤へ怒るだろう。だけどあの時は恋人という関係性が佑月にはなかったため、オブラートに包むことをしなかった。 『貴方は一体俺のなんなんですか!? 家族でもない、恋人でもない、そんな赤の他人が人のことに首をつっ込んで、とやかく言う資格も、する資格もない!』 「……」  自分で吐いてしまった言葉に怖気立つ。この言葉で須藤の心を深く抉った。 「どうした? 気分が悪くなったのか?」  信号で止まったタイミングで、須藤が佑月の顔を覗き込むようにして訊ねてきた。佑月は咄嗟に首を振る。 「大丈夫。……ただ、やっぱり色々考えてしまって、凹んでた。思い出すことを望んでたのは自分だし、いい事ばかりじゃない事も分かってた。甘ったれんなって怒られても仕方ない。だから早く受け入れないとだけど……」  ここで誤魔化しても、須藤には筒抜けだと思い、佑月は正直に伝えた。 「そうだな。過去の俺にばかり目を向けていないで、今の、そしてこれからの俺を見ろ。もう二度とお前に辛い思いはさせない。だからお前も前を向いて俺の隣にいるんだ」 「なにそれ……。めちゃくちゃかっこいい」  信号が青になり、車を走らせる須藤の口角が綺麗に上がる。  本当にいい男だ。いかに自分が小さいかを突きつけられるが、佑月とて守られてばかりで、甘えた存在ではいたくない。だから佑月は須藤の〝心〟を守れる存在でいたい。  いつまでも。お互いの命がつきてしまうその日まで。  佑月は、車窓から鮮やかな青が広がる空を見上げた。  颯、陸斗、海斗、花、岩城、真山、滝川、月山、平田、田口、村上、病院関係者、そして佑月の知らない所で関わってくれた人々へ、佑月は深く感謝していく。 ──ありがとうございます。  みんなの助けや支えがあり、佑月はこうして生きていられる。愛する男と生きていく幸せを頂き、何度も何度も感謝した。  そして……須藤。  一番近くに傍にいて、佑月を諦めず、一緒に一から始めてくれた須藤の強い想いに、どれだけ感謝しても足りないくらいだった。だから佑月もこの二ヶ月の中で須藤という一人の男に惹かれていった。  人生で二度も同じ男に惚れるなど、もうこれを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのか。 ──ありがとう、仁。  二人を乗せた真っ白な車体(ボディ)は、太陽の光を浴び、一層輝いて目的地まで走り抜けていった──。 end

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