20 / 45
第20話 Je t'aime
いつものように一時限目の終わり頃、俺はスラックスのポケットに両手を突っ込んで、学校まで十五分の道のりをブラブラと歩いてた。
いつもと違うのは、一分に一回くらい、振り返る事。何度目かで、見覚えのある黒い高級車が目に入った。
窓が細く開き、インテリ眼鏡の綾人が一言呟く。
「乗れ」
後部座席に乗り込むと、顔を傾けて掬い上げるようにキスされた。
「んっ」
「おはよう、四季」
「お、おう」
こんなにスマートにおはようのキスが出来るなんて、欧米人みてぇ、綾人。
照れ隠しに手の甲で唇を拭って、ぼそりと訊く。
「綾人、留学とかした事あるか?」
「ん? フランスのグランゼコールに行ったが」
「大学?」
「大学というよりは職業に特化した……高度専門職業人の、養成機関だな」
車は一本裏路地に入って、停められた。
「それより、ハシユカにバレたって本当か?」
「うん。キスマークついてるってカマかけられて、バレちまった。バラさない代わり、付き合えって言われた」
「マジか」
いつも丁寧な言葉遣いの綾人が吐き捨てて、俺は驚いて綾人のレンズの奥を覗く。
「ん?」
「いや。アラサーの綾人が『マジ』なんて言うの、珍しいと思って」
これまた珍しく、綾人が拗ねたように唇を真一文字に引き締めた。
「心は大学を卒業した所で、止まってる。アラサーじゃない」
「綾人、幾つ?」
「アラサーだって言わないなら、教えてやる。二十八だ」
「立派なアラサーじゃん」
「言ったな。お仕置きだ」
思わず笑うと、綾人が脇腹をくすぐってきた。
「わ、ちょ、タイムっ」
俺は脇腹が弱かったから、車内で必死に身を捩(よじ)る。
綾人も、口角を上げて笑ってた。
一分くらいその攻撃は続いて、最後に無理やり唇を奪われて、ようやく止んだ。
ゼイゼイと息を乱し、俺はしばらくグッタリと広い車内の隅っこに蹲(うずくま)る。
「四季、脇腹が感じるんだな」
「違げぇよ! くすぐったいだけだ」
「そういうのを、性感帯っていうんだ」
否定の言葉を被せようとして、はたとシィの言ってた言葉が思い出される。
まだ少し頬を上気させながら、ポツリと呟いた。
「……喧嘩ップル」
「ん?」
「喧嘩ばかりしてるカップルの事を、喧嘩ップルって言うんだってよ」
「そうか。でもこれは、喧嘩じゃない。お仕置きだ」
「今度くすぐったら、そのイケメンを蹴るからな」
「ほう。四季は、俺の事がイケメンに見えるのか」
しまった。俺は目を逸らしてドスをきかせた。
「んな訳ねぇだろ」
「嬉しいぞ、四季」
車内の限界まで後退っていた身体は、もう逃げようがなく、唇が重ねられる。
初めは恥ずかしかったけど、何事にも動じない運転手に、いつしか存在を忘れてた。
不意に声がかかって、急に恥ずかしくなる。
「綾人様。間もなく出ないと、待ち合わせの時間に遅れてしまいますが」
「ああ……分かった」
綾人は答えて、真剣な顔で俺の涙ぼくろを親指の腹で撫でた。
「どっか行くのか?」
「ああ。この状況を打開しに。四季、これをやる」
「あ?」
渡されたのは、結構な厚さの本だった。
「これから、メモをやり取りする時は、フランス語で書こう。万が一誰かに見られても、内容が分からないように。ナベが部屋に来てクシャクシャの紙くずを渡された時は驚いたが、あれは良い案だ。拾われても、ゴミだと思われる」
って事は……。
「フランス語の辞書?」
「ああ。難しい文章は書かないから、すぐに翻訳出来る筈だ。多少面倒だが、頼む」
綾人は大事な時に『頼む』って言う。俺はその言葉に、ほだされてしまう。綾人みたいな大人の男に、一人前に扱って貰える事に。
確かに綾人は、生徒との距離が近い存在だった。俺はちょっと不安になる。
「浮気すんなよ。綾人」
「俺はしない。お前こそ、襲われないように気を付けろよ。じゃ、すまないがここで降りてくれないか」
「うん。また、この時間にな」
降りると、複雑な裏路地を器用に曲がって、車は走り去っていった。
放課後はハシユカが見張ってるから会えないけど、また登校時に会える。
何気なく辞書のページを開くと、表紙の裏に流暢な文字で『Je t'aime』と書いてあった。
俺は早速辞書を引く。J……J……あった。
「あ」
思わず声が漏れて、頬が上気する。
文字で見た事はなかったけど、それは耳慣れた愛の言葉、『ジュテーム』なのだと書いてあった。
ともだちにシェアしよう!