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第20話 Je t'aime

 いつものように一時限目の終わり頃、俺はスラックスのポケットに両手を突っ込んで、学校まで十五分の道のりをブラブラと歩いてた。  いつもと違うのは、一分に一回くらい、振り返る事。何度目かで、見覚えのある黒い高級車が目に入った。  窓が細く開き、インテリ眼鏡の綾人が一言呟く。 「乗れ」  後部座席に乗り込むと、顔を傾けて掬い上げるようにキスされた。 「んっ」 「おはよう、四季」 「お、おう」  こんなにスマートにおはようのキスが出来るなんて、欧米人みてぇ、綾人。  照れ隠しに手の甲で唇を拭って、ぼそりと訊く。 「綾人、留学とかした事あるか?」 「ん? フランスのグランゼコールに行ったが」 「大学?」 「大学というよりは職業に特化した……高度専門職業人の、養成機関だな」  車は一本裏路地に入って、停められた。 「それより、ハシユカにバレたって本当か?」 「うん。キスマークついてるってカマかけられて、バレちまった。バラさない代わり、付き合えって言われた」 「マジか」  いつも丁寧な言葉遣いの綾人が吐き捨てて、俺は驚いて綾人のレンズの奥を覗く。 「ん?」 「いや。アラサーの綾人が『マジ』なんて言うの、珍しいと思って」  これまた珍しく、綾人が拗ねたように唇を真一文字に引き締めた。 「心は大学を卒業した所で、止まってる。アラサーじゃない」 「綾人、幾つ?」 「アラサーだって言わないなら、教えてやる。二十八だ」 「立派なアラサーじゃん」 「言ったな。お仕置きだ」  思わず笑うと、綾人が脇腹をくすぐってきた。 「わ、ちょ、タイムっ」  俺は脇腹が弱かったから、車内で必死に身を捩(よじ)る。  綾人も、口角を上げて笑ってた。  一分くらいその攻撃は続いて、最後に無理やり唇を奪われて、ようやく止んだ。  ゼイゼイと息を乱し、俺はしばらくグッタリと広い車内の隅っこに蹲(うずくま)る。 「四季、脇腹が感じるんだな」 「違げぇよ! くすぐったいだけだ」 「そういうのを、性感帯っていうんだ」  否定の言葉を被せようとして、はたとシィの言ってた言葉が思い出される。  まだ少し頬を上気させながら、ポツリと呟いた。 「……喧嘩ップル」 「ん?」 「喧嘩ばかりしてるカップルの事を、喧嘩ップルって言うんだってよ」 「そうか。でもこれは、喧嘩じゃない。お仕置きだ」 「今度くすぐったら、そのイケメンを蹴るからな」 「ほう。四季は、俺の事がイケメンに見えるのか」  しまった。俺は目を逸らしてドスをきかせた。 「んな訳ねぇだろ」 「嬉しいぞ、四季」  車内の限界まで後退っていた身体は、もう逃げようがなく、唇が重ねられる。  初めは恥ずかしかったけど、何事にも動じない運転手に、いつしか存在を忘れてた。  不意に声がかかって、急に恥ずかしくなる。 「綾人様。間もなく出ないと、待ち合わせの時間に遅れてしまいますが」 「ああ……分かった」  綾人は答えて、真剣な顔で俺の涙ぼくろを親指の腹で撫でた。 「どっか行くのか?」 「ああ。この状況を打開しに。四季、これをやる」 「あ?」  渡されたのは、結構な厚さの本だった。 「これから、メモをやり取りする時は、フランス語で書こう。万が一誰かに見られても、内容が分からないように。ナベが部屋に来てクシャクシャの紙くずを渡された時は驚いたが、あれは良い案だ。拾われても、ゴミだと思われる」  って事は……。 「フランス語の辞書?」 「ああ。難しい文章は書かないから、すぐに翻訳出来る筈だ。多少面倒だが、頼む」  綾人は大事な時に『頼む』って言う。俺はその言葉に、ほだされてしまう。綾人みたいな大人の男に、一人前に扱って貰える事に。  確かに綾人は、生徒との距離が近い存在だった。俺はちょっと不安になる。 「浮気すんなよ。綾人」 「俺はしない。お前こそ、襲われないように気を付けろよ。じゃ、すまないがここで降りてくれないか」 「うん。また、この時間にな」  降りると、複雑な裏路地を器用に曲がって、車は走り去っていった。  放課後はハシユカが見張ってるから会えないけど、また登校時に会える。  何気なく辞書のページを開くと、表紙の裏に流暢な文字で『Je t'aime』と書いてあった。  俺は早速辞書を引く。J……J……あった。   「あ」  思わず声が漏れて、頬が上気する。  文字で見た事はなかったけど、それは耳慣れた愛の言葉、『ジュテーム』なのだと書いてあった。

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