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Schicksal~運命

 レオンハルトが唱える聖ミカエルへの祈りを、そこにいる全員が復唱する。 「聖ミカエルよ!ミカエルさま!御願いです。殿下を天にお帰しにならないでください!この方はまだ、この地上に必要な方です」  レオンハルトの悲痛な叫びが室内に響く。温めても温めてもエーリヒの体温は冷たいままだった。  彼には見えていたのだ。闇がエーリヒを包んで心を縛り、自らが湖に身を投じるように仕向けたのを。彼が何かにすっかり絶望してしまっていたのを。 「ミカエルさま御願いです。この方を御救いください……」  ここに来た時、確かに大天使ミカエルは彼を守護していた。それなのに何故、今は応えてはくれないのだ。 「どうか…どうか…誰かの生命が必要ならば、私の生命を代わりにお召しになってください」 「レオンハルト!」  ライムントの鋭い声が飛んだ。 「いいえ、罪深いのは私なのです。私はこの方に一目惚れして…愛してしまった。神が決してお許しにはならない、ソドムの愛を抱いてしまいました。  だから…闇がこの方の心を蝕んだ。全ては私の罪なのです」  それは余りにも悲痛な告白だった。  エーリヒとレオンハルト。二人は互いに相手を愛しながらも、誤解とすれ違いと禁忌に血の涙を流していたのである。 《お前のその想いに偽りはないか》  厳かに言葉が頭の中に響いた。驚いて身を起こすとライムントとロルフも驚いた顔をしている。恐らく二人共に今の言葉が同じように頭に響いたのだろう。 「偽りはありません!私はこの方をお慕い申し上げております!主への反逆者と呼ばれようとも、この想いは消す事は出来ません!」  消してしまえたらどんなに良かっただろう。自分が異端者として裁かれるのは、同性を愛してしまった罪ゆえに仕方がない。だがエーリヒもまた共に裁かれてしまうなら、自分は何と罪深い事か。  美しく孤独な王子。義母の策略がなければ今、この国の玉座に座っていた筈の人間。風を操り大天使ミカエルの加護を受けている。その彼が異端審問に掛けられ、こんな場所に幽閉されているなんて。  その理不尽さにレオンハルトは心底腹が立っていた。だが同時に一目惚れした彼が、幻視者である自分を嫌うのも当たり前だとも思った。両親以外にはずっと気持ち悪いと言われて来たのだから。  ベーエ大公家の人々も、受け入れてくれた数少ない人々だった。  炎を操るライムント公子。  幼い時に彼の口から語られる、王太子エーリヒの事。どれだけ憧れただろう。本人にやっと出会えて、憧れが恋に変わるまでは一瞬だった。  澄んだ深い水のような、美しくエメラルドグリーンの瞳。その輝きに吸い込まれそうだった。逢ったその瞬間に、自分はこの方に出逢う為に生まれて来た。そう思ってしまったのである。この方の為に全てを捧げても良い。  そんな一方的な熱情をきっと、彼は敏感に感じ取ってしまったのだと。 「あの…僕は思うんだけど。王兄殿下も多分、レオンハルトさまを想っていらっしゃると」  ロルフは気付いていた。エーリヒの熱を孕んだ瞳が、切なげにレオンハルトを見詰めているのを。特にライムントと寄り添う彼を見る眼差しは、側にいる自分の胸が痛くなる程哀しい色を帯びていた。  ロルフはそれをありのままに口にした。 「ちょっと待て。つまりエーリヒは私とレオンハルトが恋仲だと思っていたと?」 「恐らくは」  自分が何故、エーリヒに避けられるようになったのか。その原因がどうしても、ライムントにはわからなかったのだ。  レオンハルトが嫌い。そう言った彼の眼差しはどこか悲痛だった。生まれて初めて従兄であり、幼なじみであり親友である筈の彼に拒絶された。そして人嫌いとも言える状態になってしまった彼を、心配しない日はなかったのだ。  それが…誤解の結果だとは…ライムントは泣きたいような、笑い出したいような気持ちになった。彼にとってレオンハルトは、可愛い弟に過ぎない。レオンハルトにしても同じの筈だ。  見知らぬ場所に連れて来られて、よく知る人間がいたら頼るのは普通だ。だが恋心はそんな事すら見えなくなる程に、エーリヒの身の内に燃え上がってしまったのだろう。  レオンハルトのエーリヒへの想いは、彼がここへ来てすぐに相談された。だが同時にエーリヒの引き籠もりが始まった為、ライムントとしても告げる訳にはいかなくなったのだ。  今回のエーリヒの行動は、片想いに絶望したからなのだろうか?彼にとってレオンハルトへの想いは、禁忌の自殺へと走らせてしまう程のものなのか。 「ああ…そうか。天が定めし宿命の相手か…」  このキリスト教公教会の教えが絶対の時代に、同性がその相手だというのは…自らの罪深さに苦しむだけだ。エーリヒもレオンハルトも、その罪深さに相手を巻き込む事を恐れたのだ。 『余は異端者ではない』  母王妃エルメンヒルデ譲りの敬虔なクリスチャン。それが逆にエーリヒを追い詰めてしまったのだ。  神が定めし宿命の相手。キリスト教以前の土着の信仰に存在した考え方だった。人間には必ず、神が定めし宿命の相手がいる。その相手にもし巡り逢えたならば、互いに瞬時にして求め合ってしまうと。もしも出逢った二人が添う事が出来なかったとしたら、それは絶望以外の何ものももたらさない。従って神が定めし宿命の相手を見つけ出した者たちを、決して引き裂いてはならない。  伝説には引き裂いた事で世が荒れて、幾つものの国々が戦乱に包まれた話もある。  エーリヒとレオンハルトは天が定めた二人なのだ。如何にキリスト教公教会が異端と呼んだとしても、エーリヒを大天使ミカエルが守護しているのがその証拠ではないのか。  公教会の教えは、人間が勝手に作った枷に過ぎないのではないか。  公教会の教義を全否定する想い。それは火刑に値する異端。  だが目の前のこの二人を、その想いを否定する事は出来ない。全てに絶望して凍てついた湖に、自らの身を投じたエーリヒ。その姿に自らの恋心を罪として、代わりに生命を投げ出そうとするレオンハルト。  天は…神は…これを罪だと言うとは思えない。 「聖ミカエル、教えてください。この二人は罪ですか。純粋に互いを愛する心を持つのが罪ならば、我々は何を以て愛と呼べと言うのですか」  嘘偽りのない真摯な言葉だった。 《答えよう、我が愛し子よ。人間が定めしものと天の理には差がある。我はこの二人を救い、祝福しに来た》  頭に言葉が響き出した途端、降り注ぐ無数の羽根と共に純白の翼が姿を現した。大天使ミカエルの姿そのものは、そこに居合わせた人々には見えなかった。幻視者レオンハルト以外は。  純白の翼は七色の光をまとって確かにそこへ降臨した。降り注ぐ羽根は何かに触れると、霧となって消えてしまう。だが触れた人間たちはそれが、自分たちへの深い慈愛に満ちた温かさを与えるのを感じていた。誰しもが自らのロザリオを握り締め十字を切って祈った。  大天使ミカエルが公教会を否定した瞬間であった。キリスト教暗黒時代。イエス・キリストの真の教えは歪められ、公教会は腐敗の限りを尽くしていた。それでもその権威は欧州を席巻し、魔女狩りと魔女にされた人々の火刑の煙が絶える事がなかった。  …………何だろう…温かいエーリヒは微睡みの中で確かな温もりを感じていた。  ゆっくりと目を開いた。目に映る天井は自室のものではなかった。パチパチと薪がはぜる音がする。それで自分が今、どこにいるのかがわかった。  何故こんな所に自分はいるのだろう?  記憶が曖昧になっていた。 「エーリヒさま…エーリヒさま!」  胸元で声がして驚く。身を起こしたレオンハルトが、両手を差し伸べて縋りついて来た。 「レオンハルト?これは…如何した事だ?余は一体…」  そこまで言ってエーリヒは自分が何をしたのかを思い出し、エメラルドグリーンの瞳から、澄んだ涙が零れ落ちた。  死にたい。消えてしまいたい。  そう思っていたのは確かだった。だが、自分がそれを実行してしまったのが、どうしても不思議だった。  第一、礼拝堂の屋根へ出た辺りの記憶が、霞が掛かったように朧気(おぼろげ)だ。あの時にはまだワインは軽く口にしただけだ。さほど酔ってはいなかった筈だ。  エーリヒは普段、そんなに呑んだりしない。あのワインのボトルはどこから?テーブルのワインとは銘柄が違う。月明かりで銘柄は記憶していた。ボトルも通常のものより、大きめのものだった。  誰かが手渡した?だとしたら中に何か入れられていたのかもしれない。となれば自殺行為を望んだ訳じゃない。自然と口をついて、思い付いた事を呟いていたらしい。 「エーリヒさま。それは皆さまを交えて、お話しになられてください」 「レオンハルト…」 「今はお召し物を。まだ気温は低くうございます」 「そう…だな。  ウルリヒを呼んでくれ」  そう言って、慌てて付け加えた。 「まずはそなたの身支度を。余は後で良い…風邪をひく」 「はい」  レオンハルトが身じろぎした。 「ッ…!」  今更ながら互いに肌を合わせているのを意識してしまう。エーリヒは自分のモノが、欲情を示しているのを自覚した。 「すまぬ……」  ライムントの想い人に欲望を抱く。この温もりの何もかもを、自分のものにしてしまいたい。この状況で抗うのは難しい。だが、抗わなければならない。  ライムントを裏切る事は出来ないのだ。真実を知らないエーリヒは、未だに誤解したままだった。

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