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Wendepunkt~転機

 だがキリスト教が聖なるものとする十字架と、古き宗教の十字には決定的な違いがあった。これをキリスト教は天使たちに結び付けて上手く利用して行った。  火・水・風(空気)・土(大地)という四大元素(The Fifth Element)をそれぞれ、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの四大天使に振り分けた。  古き宗教に於いて四大元素は、世界を浄化する力である火と水、世界を創造する力である風と土を示していた。この四つに生命を象徴する循環を示す円を付け、世界を表しているのが聖なる十字だった。  東洋の五行も全ての循環をこの世の真実の姿と考える。  砂漠や荒れ地に派生したユダヤ教を下地に発達した、キリスト教やイスラム教にはこの循環の思想がない。古き宗教を呑み込んで成長し、変わって行ったキリスト教は、古き宗教の上辺だけを利用した過去があった。  それが異端審問の底辺に存在した。実際に魔女狩りは北へ行く程、激しく厳しくなった。村一つが滅んだ事もある。魔女を見分ける道具と称して、残虐非道な拷問が次々と考案され、悪魔の契約を記す痣を探す針は、痛みを感じない部分がそれと考えられた為に、内部へ針が引っ込むものまで作られた。  やがてカトリックとプロテスタントの紛争が、互いの信者を魔女狩りする事態へと変化して行く。  異端審問や魔女狩りとは、神の名の下に行われた悪魔の所業と言える。同性愛やサディズム・マゾヒズムは、悪魔崇拝の証とされて『ソドミスト』と呼ばれ迫害される。これは現在でも一部では変わらない状況である。  エーリヒたちが生きた時代は、プロテスタントが誕生する前、キリスト教が最も腐敗した時である。 「聖なる十字って…異端ですよ?」 「じゃあ言い直そう。四大天使のElementと同じだとは思わないか?」 「確かに…そうですが、それって、聖ミカエルが降臨される理由なんでしょうか?」 「そこまではわからない。だがその事に深い意味があるのかもしれない」  時間の流れから取り残されたような館が、再びゆっくりと流れを取り戻し始めていた。仲睦まじく過ごすエーリヒとレオンハルトの幸せな時間が、少しでも永くあって欲しいとロルフは祈らずにはいられなかった。だがその願いを打ち破るように、彼らを取り巻く世界が動き始めた。  その年の冬は冷え込みが激しかった。貧しい家では十分な暖が取れず、一家全員が凍死する事態が起こった。  次いで隣国であるヒルルトラウト皇王、つまり王太后ギルベルタの父親が死亡した。現代的に見れば死因は脳卒中。突然倒れて眠ったまま死んだ。  ギルベルタ王太后は強力な後ろ盾を失った事になる。  ヴォードブルグ公国内では、彼女の執政への不満が膨らみつつあった。新王アルブレヒトは暗君そのものだった。甘やかされた彼は癇癪(かんしゃく)持ちで、自分に仕える者にすら嫌われていた。  彼らの人気が失墜するに付け、エーリヒの異端を疑う声が(ささや)かれ始めた。それは教会の審判を否定する行為である。  大司教クリストフォロ・ドラーツィオは焦った。ヴォードブルグ公国での教会の失墜は、自分の失策として記録される。状況によっては彼が異端審判を受けかねない。彼が少年に性的嗜好を持っているのは、薔薇の館に住むエーリヒたちが知っているからだ。賄賂(わいろ)と恫喝(どうかつ)で今まで逃れて来た罪が、白日の下になってしまうだろう。  そうなってしまっては、打つ手もなくなってしまう。異端審問の残虐さは、それを行う側であるドラーツィオが一番知っている。  虚栄と虚飾に身も心も肥満した男は、本気で恐怖に震えた。犬が尻尾を振って媚びるように、ゴマを摺って寄って来ていたアプト男爵も最近は来なくなった。  そして―――  ギルベルタ王太后も焦っていた。父親の跡を継いで即位した兄とは、幼い頃から折り合いが悪かった。彼がギルベルタ王太后の新たな後ろ盾にはなる筈がない。ヒルルトラウト皇国の軍事力と経済力の後ろ盾がなければ、彼女は羽をもがれた虫と同じだ。  彼女の脳裏にエーリヒの玲瓏な面差しが浮かぶ。彼にはベーエ公一家が後ろ盾になるだろう。息子である公子ライムントを異端審問に掛けた事が恨みの元になっている筈だ。  恐怖に心を満たしたギルベルタ王太后は、エーリヒたちを抹殺する企てを模索し始めた。異常気象の影響でここ数日、ヴォードブルグ公国全体が大雪になっていた。薔薇の館までの道は恐らく、森のどこかで雪によって塞がれてしまっている筈。春の雪解けを待たなければ、あの場所に対して何かをするのは難しい。  時間はある。  ギルベルタ王太后の顔に残忍な笑みが浮かんでいた。さすがにこの冬の異常さは、薔薇の館とそれが建つ湖の島にも及んでいた。湖を取り巻く森はすっかり雪に覆われた。食料は近くの猟師たちが運んでくれるが、彼らが移動する道が辛うじて通行可能なだけだった。凍らなかった湖にも薄氷が張る朝があり、季節を忘れて咲き乱れる薔薇も時折、雪を被った。  この時代の欧州の薔薇は寒さにまだ弱かった。薔薇が現在のような耐寒性を手に入れたのは、明治時代に北海道に咲くハマナスが品種改良に取り込まれてからである。雪に弱い筈の薔薇はそれでも変わらずに、美しく咲き誇っていた。  ただ入手出来る食料が限定されてしまった為、館の食事は一気に質素なものになった。  一番困ったのは小麦だった。小麦粉がなければパンが焼けない。  すると不思議な事が起こった。  パンを皆で取り分けると、最初にあった数より多く分けられるのだ。まるで新約聖書の中の出来事のようだった。  欧州で飢餓に見舞われた時に非常食代わりになる赤ワインも、樽から幾ら汲み出してもなくならない。  パンと赤ワインと僅かな肉や魚やチーズ。それらさえあれば、栄養不足にもならずに済む。  館の使用人たちは毎日、湖に釣り糸を垂らす。湖には(ます)が住んでいる。大量には釣れないが、館の人間が飢えない程度には魚が手に入った。  薪は幾ら使っても減らない。食料を細々と運んでくれる猟師たちに、エーリヒはそれを惜しげもなく与えるように命じた。ワインも入れ物を持ってくれば、幾らでも入れさせた。そのお陰で周辺の住人からは、凍死者も餓死者も出ていない。  また館に食料を運ぶ猟師たちは獲物に困らなかった。家族に十分な肉を持って帰れた上に、館に持って行く分まで狩りが出来たのだ。  この天の恵みによる奇跡は次第に広がって行く。周辺の集落は協力して、館に食料を運ぶのに懸命になった。猟師たちがエーリヒたち館の者を救い、館が猟師たち周辺住人を救う。いつもより遥かに多い積雪量の中、エーリヒたちを支持する人々の声が波紋のように広がって行った。  もとより土着の宗教を弾圧して、無理やり布教した事実があった。多神教だった民を一神教にしたのだ。だがキリスト教自体が、多神教であるギリシャ・ローマ神話を消化して成長した。  一神教でありながら、唯一神以外を崇める矛盾があった。聖母マリア、大天使たち、複数の聖人たち。唯一神と共に彼らを崇拝するのと、多神教はどう違うのか。 そのような疑問を投げかけたのが、プロテスタントである。プロテスタントはマリアや大天使たちを崇拝しない。マリアは聖母ではあるが信仰の対象ではないのだ。  だがこの時代の人々は、この矛盾を矛盾として見る事が出来ずにいた。見たとしてもそれは異端邪説として扱われた。  未だ土着信仰の色合いが残るヴォートブルグ王国では、他国よりも異端審問による魔女狩りが激しかった。  病気や怪我は神罰。  それを薬草などで治療するは、神の審判へ叛逆する悪魔の使徒の行為。古き信仰の下である程度進んでいた医療技術が、この時代に一度後退してしまうのだ。薬草などの治療によって、病気や怪我がある程度治癒する事がわかっていても、ローマ・カトリック教会はそれを否定していたのだ。  ヴォートブルグ王国内にそういった教会の在り方に反発する勢力が生まれていた。民を残虐な火刑にする教会よりも、異端と呼ばれて幽閉されながら奇跡を起こす、正当なる王位継承者であるエーリヒを信じる者が虐げられた人々を動かし始めていた。  だがそれも未だ深い雪の中でくすぶっていた。 「レオンハルト、寒くはないか?」  愛しい者を抱き寄せて囁く。夜毎に肌を重ね互いを求め合う悦び。  昼間は寄り添い、ライムントやロルフとたわいない会話を楽しむ。そのような日々の中でレオンハルトを驚かしたのは、エーリヒの博学多才振りである。  島に自生する植物の名前は全て知っているのではないか。空を舞う鳥の名前も湖に翼を休める鳥の名前も、夜空に輝く星々の名前すら彼は記憶していた。  ヴォートブルグ王国の公用語であるドイツ語はもちろん、周辺諸国の言葉やラテン語まで彼は自在に操る。  ヴォートブルグ王国は山国と湖と森林の国である。故に古くから周辺諸国との交流を大事にして来た。国民にも複数の言語を扱う者が多い。  人間の脳の言語中枢は、8歳前後で固定する。その年齢までに複数の言語を扱う人間が側にいると、その子供は発音や言語の種類を記憶する。人間の脳は基本的な部分を押さえておけば、後は適切な学習さえ行えば幾らでも知識を吸収出来る。  英語圏に生まれ育ちながら日本語や日本文学に、日本人以上に堪能な外国人はたくさん存在する。  その逆もいる。必要なのは学ぶ時期と方法であるとも言える。  エーリヒはその見本のような人間だった。彼は幼少時に周囲に、多言語を話す人間がたくさんいた。その中で育ち王宮の巨大な図書室で多言語の本を読み、彼の優秀さを喜んだ人々が競って教師になった。  ギルベルタが嫁いで来た頃には、他国から来た使節にその国の言語で話し掛ける程だった。  彼の英才振りは周辺諸国も知るところだった。それだけではない。エーリヒは剣や槍の使い手であり、馬術にも長けていた。  わがままに育てられ勉強が大嫌いなアルブレヒトはどうしても、エーリヒと比べられて見劣りしてしまう。ギルベルタはそれ故にエーリヒを嫌ったとも言える。  ライムントも博学多才では知られているが、エーリヒには敵わないと言う。  レオンハルトは幻視者として、ラテン語をしっかりと学ばされていた。  ロルフは元々は商家の出身で、周辺諸国との交易に必要とされる為、ある程度の多言語を使える。  執事のウルリヒは歴史に詳しく、土着信仰の神話にも長じていた。神々の様々な物語はエーリヒだけでなく、ライムントも聞かされて育っていた。むしろライムントの方が興味を持っていたと言える。  六本脚の馬で天と地を駆ける神々の王の物語。  戦場の勇者を天に導く美しい戦女神たち。  古き神々は自由に大地も天も駆け回り、人々と寝食を共にした。人々に様々な知恵を授け、豊穣と勇気を与えた。地下深くにあるという妖精たちの国を本気で探そうとした事もあった。  長い冬も彼らを退屈させる事はなかった。暖炉にはいつも薪が赤々と燃え、温かいスープを飲みパンを食べる。湯で割り蜂蜜を加えたワインを飲みながら様々な話をして笑う。  夜が更ける前におやすみを言って、エーリヒはレオンハルトと寝室へ向かう。  館の中では穏やかな時間が流れ、湖を取り囲む森林の向こうでは歴史が動き出していた。

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