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第4話 Ablaze~炎上
ヴォートブルグ王国にいつもより遅い春が来た。厚く降り積もった雪が消え、春の息吹が目覚め始めた。花々が咲き乱れ、蝶が舞い、渡り鳥たちが南から帰って来る。薔薇の館がある湖にも、白鳥や他の渡り鳥が戻って来た。
ヴォードブルグが一番美しい季節である。
エーリヒは愛するレオンハルトと日々、美しい風景の中を散歩して楽しんだ。それを見守るライムントとロルフも次第に惹かれ合い、今は寄り添う姿が微笑ましい恋人同士だった。
だがヴォードブルグ王国は危機に見舞われつつあった。
ギルベルタ王太后の祖国ヒルルトラウト皇国の軍が、国境に大挙して進軍して来たのだ。新皇帝リュディガーⅢ世が、講和条約を一方的に破棄したのだ。
ギルベルタも軍を動かしたが、暗君アルブレヒト王と敵国の皇女であるギルベルタに従う兵は少なかった。
彼らが動いたのはただ、愛する祖国を守る思いからだった。当然ながらジリジリと皇国軍に押され、国境周辺の町や村から大量の避難民が王都に流れ込んだ。
軍を派遣するには食糧が大量に必要になる。そこへ難民の流入。いつもよりも大雪の冬が長引いた事もあって、王都やその周辺の都市は瞬く間に深刻な食糧不足に陥った。
凄まじいインフレと食糧の取り合い。貧しき者、特にほとんど着の身着のままで逃げて来た難民たちは、次々と餓えて倒れていった。
神に見捨てられたとしか思えない状況に、異端審問ばかりに熱心な大司教ドラーツィオへの怨嗟 の声が上がり始めた。それも仕方がない事ではあった。餓死者の屍が街道を埋めていても、彼は教会に閉じ篭って贅沢な食事を摂り続けている。
耐え兼ねた人々がとうとう教会に押しかけた。押しかけた人々を前にして大司教は、肥満した姿で人々にこう告げた。
「この国は悪魔に魂を売り渡した王子によって、既に呪われているのだ。この冬を諸君は何と見たか?あれは地獄の最下層コキュートスの冷気が、この地上に出現した証拠であるぞ!」
コキュートスとは本来、ギリシャ神話に登場する『嘆きの川』を指す。キリスト教に於いては魔王を氷付けにして、永遠に封印している場所とされている。一般には『氷地獄』と訳される事もある。
なし崩しに攻め入られ国境進行から僅か数ヶ月で王都は陥落した。ギルベルタ王太后とアルブレヒト王は捕らえられ、大司教は間一髪で逃げ出した。行く先々で大司教ドラーツィオは、全ての災厄の元凶はエーリヒだと触れ回った。
悪魔と契約した美しき王子。その美貌と優秀な頭脳を持つ身体を、魔王が地上に復活する為の器として欲したのだと。神は公教会にのみ降臨し、それ以外の場所には出現しない。公教会とそれを束ねる聖職者は神の代理人である。故にエーリヒの周辺で起こる怪しげな事は、悪魔が人心を操る為の魔術である。
公式に告げて回る大司教を、ヒルルトラウト皇国の軍が追う。大量の金銀財宝を持って逃げていたからだ。
だがそれすらも大司教は利用した。悪魔の軍勢が数多くの魔女を殺された腹いせに、神の代理人である大司教を捕らえて八つ裂きにしようとしている、と。彼らは魔王が降臨したエーリヒを、ヴォードブルク王国の玉座に就ける為に進軍して来たと告げる。
しかもヒルルトラウト皇国軍は侵略した都市全てで、残虐な略奪を繰り返していた。食糧や金銀財宝は奪われ、若い男女や子供たちが輪姦され、逃げ惑う人々を追い掛け回して殺害する。まさに地獄絵図が繰り広げられていた。
山積みになった死体に油をかけ火を放つ。その煙と臭いが周辺を満たした。まさに異端審問で火刑にされた、魔女たちの呪いのような光景だった。
そうなると恐怖が人々を動かす。
エーリヒに同情的だった人々は次第に、薔薇の館に住む彼らへ吐き出しようのない、憎悪の矛先を向け始めた。
『悪魔を殺せ!』
大司教の周りに人々が集まり始めた。前線から逃亡して来た兵士たちがそれに加わる。自分が逃げる為の詭弁 が、大司教ドラーツィオの思惑を超えて動き始めた。
恐怖を怒りと憎しみに変えた人々が、春の花々を踏みしめ蹴散らして薔薇の館へと向かう。ヒルルトラウト皇国軍すら躊躇 うほどの大群衆が、薔薇の館のある森林地帯へと蛇のように長く連なって進んで行く。
薔薇の館から分け与えられた物で、冬を越せた狩人たちも武器を手に加わった。こうなると群集は最早、手がつけられない存在となる。重火器が不十分な時代では、ありとあらゆるものが武器になる。木々の枝が棍棒や弓に加工され、鍬 を手にした農民が続く。その数は進むにつれて膨れ上がり、大司教ドラーツィオを先頭に神の名を唱える聖なる軍となった。
ヒルルトラウト皇国軍を率いる将軍ディーツェは、この大群衆の後ろからゆっくりとついて行った。そこに本当の王位継承者エーリヒがいるとわかったからだ。
大群衆は大司教に唆されて、唯一の希望になる筈の王子を自分たちで殺害しようとしている。
ディーツェ将軍にはこれ程、おかしい事はなかった。王家を守り民を守って来た筈の公教会。それが民を煽って王家の血を絶やそうとする。共に幽閉されているライムント公子も、王位継承権を持っている。こんな都合がよい事があるだろうか。
ただ食糧難は回復していない。膨れ上がった群集の中から次々と餓死者が出る。先に通過した者の中で倒れた者の屍の上に、次の者が倒れて行く。
夜は思い思いに休むが、死肉に群がる狼が走り回り、更なる恐怖を煽る。
狼は本来、通常の状態では人間を襲わない。ヨーロッパで人を襲い続けた記録に残る狼は皆、犬の血が混じっていた事は有名である。狼は犬と混血すると極端に臆病になるか、異常なまでの凶暴化する事が確認されている。
狼が襲撃するのははぐれた子供や傷付いたり病で弱った生物だけ。日本でも古くは狼がいる場所で転んではいけないとされていた。
だが彼らも飢えていた。死肉を喰らい、弱った人間を襲う。まさに地獄絵図がここにも出現していた。
だが悪魔も神もこれには関与してはいない。全ては人間自身の所業が原因。人間が種を蒔き、自らがそれを刈り取っているに過ぎない。敵はどこかに存在しているのではない。恐怖に突き動かされて、正常に働かなくなった人間自身の心にこそ存在する。
しかしここで誰かが叫んでも、彼らの目を覚まさせる事は不可能。悪鬼と化した彼らを誰も、神や悪魔でさえも止める事は出来なかった。
自分たちを殺害する為に大司教ドラーツィオに率いられた群集が来る。
その知らせを受けたのは、既に森林地帯に彼らが迫りつつある頃になってからだった。エーリヒの母 エルメンヒルデの故郷が、何とか彼を逃がそうとしてくれていたが…時既に遅しだった。
使用人たちを逃がしウルリヒに手紙を持たせて故郷プルシアへ逃がした。エーリヒは狙われているのは自分であると、レオハルトやライムント、ロルフをも逃がそうとした。だが誰も首を振って抗った。
第一、エーリヒの次にライムントが。その次にレオハルト、そのまた次にロルフが狙われてるのはわかっていた。
奇跡の力を持つ存在。それは公教会にとって最も忌むべき者。彼らに煽動されたとはいえ、民が自分の死を望むならば仕方ない。
少なくともエーリヒは王子としてそのように考えていた。
民に愛されない王侯貴族の末路は無惨なもの。それは数々の歴史が物語っていた。
「時代も民も余を必要としないのか」
最早、嘆きの感情もなかった。ただ友や恋人を道連れにするのが悲しかった。
薔薇の館がある島は、湖のほぼ中ほどにある。唯一の出入り口の岸側から、1/3程の場所まで橋が造られている。残りは跳ね橋になっていて島側から上げ下ろし出来る。
エーリヒは使用人たちを逃がしてから、岸側の橋を焼いて落とした。逃げるつもりはなかった。春の訪れに咲き乱れる薔薇を切って館中に敷き詰めた。
次第に湖の岸は人々によって埋め尽くされていった。彼らは木を切り間に合わせの橋を造る為、幾つもの筏 を組み始めた。此処は森に囲まれている土地だ。材料には事欠かない。しかも普段からそこにあるもので何かを創る民がいるのだ。
エーリヒたちはバルコニーからその光景を見詰めていた。
「聖ミカエル、天主に対する誘惑を引き起こす悪魔と悪霊に対する、御父なる天主の地上の子らの守護者よ。
聖ミカエルは、天主を愛し、御子なるイエズスに従い奉る全ての霊魂の保護者なれば、大天使なる聖ミカエルに祈り奉らん。
聖ミカエルは、天主のしもべなり。
大天使聖ミカエルは、天つ御国におけし、御父なる天主のいとも愛し給う大天使かな」
レオンハルトは大天使ミカエルへの祈りを唱え続ける。だが神や天使は余り人間たちがその愚かさ故の行為に干渉しない。
彼らが真に守護するは魂だからだ。悪魔が最も求めるのもの、それも魂。
強き輝きを放つ魂を堕落させ、狩るのが彼らの望み。職業や立場、身分は関係ない。彼らは常に人間の傍らにいて、その弱さにつけ込む。快苦で物事を判断させ、人々に怠惰 を貪らせる。時には慢心を煽り、傲慢 と欺瞞 に心を肥え太らせる。時には自己防衛本能から来る自己保存の衝動に、振り回された人間を操り他者を傷付ける行動へ走らせる。
人間は流言飛語に踊らされ、それが自らの意見だと思い込む。他者のコピーしている事にすら気付かない。
『最も罪なき民が最も罪深い』
エーリヒはそれを悲しく思っていた。人心は安易に操作出来る。帝王学を学ぶ中には人心を掌握し、望む方向へと動かす事も含まれる。
王族が微笑みを向ける。
声をかける。
それだけで民は癒され力付けられる。ロイヤル・タッチと呼ばれる行為は、長い歴史の中で確かに力を保って来た。それもまた、人心を動かす方法の結果なのだ。
湖は次々と造られる筏に埋められていく。同時に湖と島と館を包み込んで、守り続けていた森林が伐採されて消えていく。
湖と森林はヴォードブルク王国の象徴。それが失われていくのはそのまま、この国が滅んでいく事を示しているようだった。国も人間も……全ての存在は、生まれた限りはいつか終焉 を迎える。それは逃れられない宿命であった。
「慈悲深き天主よ、敵共の力よりの我らの救いの為、天の軍団の総帥なるミカエルを我らに遣わし給い、御身の臨在の内に我らを損なわしむる事なく導き給え。
我らの主にして天主よ、我らは御身の恩寵が如何に彼を高みに挙げられしかを知れり。
彼が常に御執り成しと共に我らに近付きて助け給い、それによりて我ら生命の書に記されし我らの改悛の記録と共に望む一切の徳と共に生くるを得られんことを。
ああ 天霊なるミカエルよ、我ら御身の翼の拠り所に信頼もて馳せ寄り奉る。
我らの生くる限り我らを見守り守護し給い、我らの臨終においては我らの助けに来たり給え。
ああ 萬 民の友よ。
アーメン」
レオンハルトは祈り続ける。彼は自分たちの為に祈っていたのではなかった。悪魔に煽動された罪なき民が、罪を犯そうとしているのを救い給えと祈っていた。ここで自分たちが天に召されるのは定めに従う為だと。
誰も民を恨んだり憎んだりしてはいなかった。亡国とはこのようなものだとわかっていた。ただ願うのは縁に繋がる人々が無事に逃げ延びてくれる事のみ。
筏が次々と繋ぎ合わされ、水面が次第に消えていく。さほど大きくはない湖ではあるが、一面が筏に覆い尽くされるのは異常な光景だった。民がそれを渡って大挙するのも、さほど先ではないだろう。
「着替えを」
エーリヒの言葉に残る3人が頷いた。
自らの民を出迎える。ヴォードブルク王国最後の王族として、最後まで誇りを持って。
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