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2. 魔女の家
美しい人が僕の足首に絡みついた蔓にそっと触れると、あんなにどうしようもなかったそれははらりと地面に落ちた。自由になった脚は、しかし恐怖で依然として動かず、僕は震えながらただその人を見つめていた。
魔女、なのだろう。この人が。蔓に触れるためにしゃがみこんだ彼女の顔は、やっぱり息を呑むほどの美貌だった。長い睫毛がはっきりと見える。貴族の服のように滑らかな髪が肩口から滑り落ちてくる様子に目を奪われる。何も言えずにいると、魔女はゆっくりと立ち上がって、そうして僕に手を差し伸べてきた。
「立てますか? どこか、痛みますか?」
「へっ、ぁ、い、いえ、大丈夫……」
僕は思わずその白く細い、陶器のような手を取った。
何をされるでもなく、優しい力で立たされる。魔女は僕の全身をまじまじと見ると、ふと何かに気が付いてまたしゃがみこんだ。
彼女の指先が、唐突に僕の膝に触れ、僕は何故だか小さく悲鳴を上げながら飛びのいてしまう。魔女に触れられた恐怖もあった、かもしれないが、それ以上に。
貴婦人に跪かれて触れられる。そんな気恥ずかしさがあった。
魔女はきょとんとした顔で僕を見上げる。その指がすっと示した僕の膝は、ズボンが破れてわずかに血が滲んでいた。
「お怪我を……。すみません、あの人の悪戯で。手当をしましょう」
「あ、え、えっと」
「こちらへ。今日は霧が濃いですから、はぐれないように」
また差し出された手が、今度はぱっと僕の手首を掴む。拒む暇もなく引っ張られて、僕は成す術もなく魔女の後ろをついて歩いた。
霧が、本当に濃い。少し先さえ見えない。魔女に掴まれている感触だけが確か。この手を離されれば、僕はいよいよ森から出られず野垂れ死ぬだろう。いや、この魔女について行って、魔女の家に連れて行かれて、そこで儀式の生贄なんかにされて、死ぬかもしれないが。
どうにでもなれ、と思った。その一心で、僕は歩き続けた。
やがて、一匹の小鳥の声が聞こえた時。
霧が、ざっと晴れた。
「うわ……」
目の前に広がった光景に、声を漏らす。
鬱蒼と生い茂っていた木々や立ち込めていた霧が嘘のように、そこにあったのは美しい湖とほとりに咲き乱れる花々。陽光が穏やかに降り注ぐ、教会で語られる神話の楽園そのものと言っていいほどに明るい場所だった。
魔女が、振り返る。光の中で見る彼女は一段と美しく見えて――。
彼女?
ぱさり、と魔女はローブを脱いだ。現れたのは陽光を受けて煌めく金糸の長髪。麗しい顔立ち……。
しかし、それはよく見ると。
「……男?」
「ええ、男ですよ」
彼女もとい彼は、何でもないことのように頷く。てっきり「魔女」だと思っていた僕は何だか拍子抜けで、知らない間に張っていた気が抜けて、へなへなとその場にへたりこんでしまった。
彼は慌てて僕の傍にしゃがみこむ。
「どうしました? お膝が痛みますか?」
「いえ、いいえ、大丈夫です……。あはは、腰が抜けちゃって……」
「まあ、それは大変です。どうしましょう……。お茶を淹れてきましょうか? きっと気分が落ち着きます。ちょっと、ここで待っていてくださいね」
僕の肩を優しく撫でた彼は、すぐに向こうに見える小さな家へと駆けて行った。木造のそれは、まるで絵本に出てくる妖精の家だった。木を組み合わせて作っているように見える。壁には蔦が絡んでいるところもあり、芽吹いてしまっている木材さえあった。可愛らしい三角屋根。あの人が住んでいると思うと、妙に納得をしてしまうような、なんとなくちぐはぐだと言いたくなるような。
僕が触れている地面は温かかった。恐怖がじんわりと解されていく。ここが魔女の家? そんなはずはない。寧ろ天使の隠れ家だ。他の騎士団の人たちは大丈夫だろうか。そうだ、あの人はここに住んでいるのだから、道案内をしてもらえるかもしれない。騎士団の人たちと何とか合流して、一度この森を出るべきだ。こんなに霧が深いなら捜索なんて無理なんだから……。
考える僕の後ろで、がさり、と物音。
頭上に落ちる影。
僕は恐る恐る振り向いた。
そして、叫んだ。
「うわぁーッ! っ、ぐぇ……」
「騒ぐな、小僧」
反射的な叫びは、喉をきゅっと絞められたことで引っ込んだ。
クマ。クマのごとき巨体。真っ黒な服に身を包んだ男が僕の背後に立っていた。町の大工より太い指が僕の首を絞めている。苦しくて掴んだその指は乾いていて、皺だらけで。
目の前に寄せられた顔。年齢がそのまま刻まれた皺。白に近い瞳の色。彫りの深い顔立ち。鷲鼻。地が唸るような声。老人なのに明らかに引き締まった体躯。
これこそ魔物だ! 助かったと思ったのに!
しかし僕には天使の助け舟が。
「ロゼ! やめて!」
彼が戻って来てくれた。お盆にカップを乗せて歩いて来る彼は、僕の喉を絞める怪物を窘める。怪物はその言葉を聞いて、不承不承と言った態だが手を離した。
咳き込む僕の背中を、美貌の彼は優しくさすってくれる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
「もう、ロゼ。あなたの悪戯で怪我をされた人ですよ。お客様です」
「勝手に入ってくる方が悪いんだ。……気まぐれも大概にしろ、カナリア」
「酷い人……」
カナリア、とはこの美しい人の名前だろうか。なるほど、似合った響きだ。目を伏せた憂い顔も儚げで、この世のものではないみたい。
ロゼという名の怪物は、カナリアさんの頬を一撫ですると、むすっとした顔で湖の方へと歩いていった。遠ざかっているのに、大きい。
ごめんなさいね、とカナリアさんが言う。
「いつも、ああいう人なんです。気にしないで」
微笑まれてしまっては、僕も頷くしかない。
カナリアさんは運んできてくれたコップを僕に差し出した。不思議な匂いのお茶だ。この森に咲く花の香りだと言う。一口飲むと、美味しかった。
「美味しいです」
「それは良かった。町の人のお口に合うか、心配だったんです」
「合いますよ、とっても美味しいです。お店が開けるくらい」
「ふふ。町の人って、お上手ですね」
ああ、なんて愛らしく美しい人だろう! 口元を隠して笑う仕草はまるで天使か聖母だ。その重苦しいローブは似合わない……。
「……カナリアさんは、ずっとこの森に住んでいるんですか?」
「いいえ、長く住んでいるのは、あっちのロゼです。私は数年前にここに来たばかり」
「へえ……。あの、……森の魔女、って知っていますか?」
思い切って訊いてみた。
カナリアさんはぱちりと瞬きをすると、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい、町の噂には疎くて……。この森のことですか?」
「は、はい、たぶん」
「うーん、ロゼに訊けば分かるかもしれませんけれど……」
二人揃って、湖の方へ行ったロゼを見やった。
彼は水面を眺めているばかりだが、その横顔は何だか不機嫌そうだ。カナリアさんが苦笑をしたので、僕も「やめておきましょう」と笑みを返した。
「その森の魔女さんは、何をする人なんですか?」
「えーっと……。最近町で、ちょっと不幸が続いていて。それが魔女のせいなんじゃないかって、皆で言っているんですけど」
「まあ、悪い魔女さんなんですね」
カナリアさんが口に手を当てて大げさに驚く。素直な反応も可愛くて、僕は笑いながら首を振った。
「誰にも分からないんですけどね。家畜が死ぬことは昔からよくあることだし、不作だって、何年もやってれば一度や二度は経験します。みんな不安がってるだけなんですよ」
そうだ、こんなに美しい人が住む森に、恐ろしい魔女なんているはずがないじゃないか。僕は自身を持って、安心してください、とカナリアさんに言った。
それよりも心配なことがある。
「それで、カナリアさんとロゼさんは、どういう関係なんですか?」
「え……。えっと……、何と言ったらいいのか、説明が難しいのですけれど……」
美しい唇が言い淀んでいる。
悪い予感がしてしまう。僕はロゼに背を向けて、彼からカナリアさんの姿が隠れるようにした。
「もし、あの男に無理矢理ここに閉じ込められているなら、言ってください。僕と一緒に逃げましょう」
「え……」
「大丈夫。今ははぐれてしまっていますが、騎士団が来ているんです。実は僕も騎士団の一員で……。もし困っているなら、必ずあなたを助けます」
囁きながら、僕はカナリアさんの手を握った。滑らかな肌。本当に陶器のようだ。見開かれた瞳の色はやはり複雑で、魅入られそうなほどの輝きを放っている。
薄い桜色の唇が、少し震えて。
「お優しい人、ですね」
微笑みは、どこか寂しそうに見えた……。
「おい」
「うわっ」
唐突に降ってきたのはロゼの声だった。いつの間に近付いていたのか、僕の真後ろに立ったロゼは強引に僕たちの手を引き剥がす。ロゼ、とカナリアさんがか細く呼んだ。しかしその巨大な怪物は問答無用でカナリアさんの細腕を掴むと、痛みに顔を顰める彼を無理矢理に立たせた。
「気まぐれも大概にしろと言ったはずだ」
「ロゼ、違うの、これは……!」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
僕は精一杯の勇気を振り絞って立ち向かう。やっぱりこの男、カナリアさんに酷いことをしているんだ。焦って弁明しようとする美しい人を、老人とは思えないほどに太く逞しい腕で引き寄せている。腰を捕らわれたカナリアさんは身を捩るが、とうてい身動きなどできそうにない。
皺だらけの深い彫りの奥で、色素の薄い瞳がぎらりと光った。
「誰の許可を得てこれに触っている。お前ごときが触れていい存在ではない」
「そ、そんな横暴なことがあってたまるか! カナリアさんを離せ!」
「生意気をぬかすな。出て行け、小僧」
木々を、湖を、地を震わせる気迫。
老いた指が、一振りされた。
たったそれだけの仕草で、僕の視界は、徐々に暗くなっていったのだった――
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