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第29話
グリューンの躰を拭き終えたブラッドは、汚れた水の入った盥を抱えて竜舎を出ると、太陽は既に中天に差し掛かっていた。
汚れ度合いにかかわらず、使用済みの水は処理専用の下水道に捨てる決まりになっていた。
以前は竜舎の外であれば、どこでも好き勝手に捨てていた。そのため、広場は常にそこかしこに水溜まりがあり、運動後の竜は泥だらけだった。
ある年、竜たちが次々と病に罹患した。
原因は泥だった。暑い季節で、長雨の後だった。黴と蚊の大量発生、竜の食べ残した野菜や果物のクズなどが原因で病原菌が泥を介して人間の靴底について竜舎へ侵入したのだ。
少なくない竜たちの犠牲の後、病の原因と起因を突き止め、竜舎だけでなく城の敷地全体を清潔に保つ事となった。
処理用の下水道は竜舎の裏にあった。井戸からは大分離れた場所だ。
小柄なブラッドには大きすぎる盥だった。レオンが捨てる申し出てくれたが、自分の仕事だからと断り、視界を塞ぐ盥を抱えて歩いていた。
盥の向こうに焼き煉瓦で作った洗い場が見えてきた。その横に煉瓦と石を敷き詰めた下水道がある筈だ。
後少し……。
前方を確かめながら歩いていたブラッドの肩に衝撃が当たった。危うく盥を落としそうになったが、懸命に抱え直し、事なきを得た。
「邪魔なんだけど」
頭の上から声がした。
見ると、ブラッドの前と後ろに調教師見習いの少年らがいた。彼らはブラッドと年はあまり変わらないが、体格は大きく立派だった。
「ご、ごめんなさい。前がよく見えなくて…」
「お前さ、目障りなんだよ」
一人がブラッドの背中を押した。盥を落としそうになったが、ブラッドは何とか堪えた。
「奴隷上がりが、何で竜の世話なんかしてるんだよ。おかしいじゃないか」
「そうだ、そうだ。俺ら見習いだって、まだ、竜には触らせて貰えないのに、何でお前なんかが、しがも、卵を抱いてる竜の世話が出来んだよ」
日頃、彼らはきつい水汲みや竜舎の掃除をブラッドに押し付けていた。本来は彼ら見習いが、竜の習性や個々の性格を把握するための仕事なのだが。
「生意気なんだっつてんだよ!」
一番大柄な少年がブラッドの膝裏を強く蹴った。ガクン、と、ブラッドが地面に膝を突いた。盥が手から離れ、ブラッドは中の水を全部被る羽目になった。
「ちゃんと持ってろよな」
「地面汚すんじゃねぇよ」
ブラッドを蹴った少年が盥を拾い上げた。
「大事な道具を放り投げんじゃねぇ。奴隷なんかに買える道具じゃねぇんだよ」
少年は盥をブラッドの頭に叩きつけるように被せた。
「死ねばよかったのにさ」
少年の言葉に、胸の奥に氷の破片が刺さったような痛みを覚えた。
「パオルさんに殴られたの、俺、知ってるぜ」
盥を被ったままのブラッドの耳許で少年が言った。
「調教師を怒らせてさ、お前、よくここにいられるな。面の皮、どんだけ厚いんだよ。目障りだから、どっか行っちまえ。それに、奴隷に世話される竜がかわいそうだ。パオルさんに殴られた時、死んじまえばよかったのに」
押し黙ったままのブラッドに、少年は苛立ったように盥を蹴り上げた。高く上がった盥は、地面に落ちた衝撃で金具が外れ、ばらばらになった。少年の爪先がブラッドの右のこめかみに当たり、擦れたところから血が滲み出た。
「調教師見習いのでもないくせに、竜舎をうろつくんじゃねぇ。目障りだ。お前なんか、いっそ、生まれて来なけりゃよかったんだよ」
気が済んだのか、見習いの少年たちは口々に出て行け、とか、目障りだなどと吐き捨てて去って行った。
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