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第30話

『生まれてこなければよかった』 気持ちが前向きになりかけると、その言葉がいつもブラッドに覆い被さる。起き上がるのを邪魔するかのように。 まるで、呪いだ。 俯いたブラッドの唇が震えた。噛み締めないと、何か叫びそうだった。躰が冷えて固まっていくような気がした。 ふと、髪を撫でる温かい手を思い出した。 会ったばかりなのに、二度、助けてくれて怪我の手当てをしてくれた手。暴力が赦せないと言ってくれた。 氷の刃が刺さったまま冷えきっていた胸が、奥からじんわりと熱が広がった。 真夏の空より蒼い瞳を思い出し、ブラッドは深く息を吐いてから立ち上がった。散らばった盥の残骸を集め、顔の雫を袖で拭った。 その袖も濡れていた事に気づき、くすり、と笑った。 「そうだよね。僕は凄く幸運なのかもしれない。本当だったら、僕なんかが竜に触れるなんてあり得ないんだから」 孤児院にいた頃は、同じ境遇の子供らとよく笑っていた。楽しいことばかりではなかったけど、遊んだり、勉強したり、時にはささいな喧嘩をしたり。 院を出てから、感情の起伏が少なくなったような気がする。神官らは子供たちに文字や簡単な計算を教えてくれた。仕事につく上で役に立つようにだ。 それでも、院出身という事実は安定した仕事につくための大きな壁となっていた。 ブラッドは頭を振って歩き出した。 暗い思考に陥りそうになった時は、いつも無理矢理でも気持ちを切り替える。そうしないと、前に進めなくなると思っているから。 壊れた盥を城の鍜冶師に頼むために、鍜冶小屋を訪れた。鍜冶師は城で使う包丁や鎌や鍋を作るだけでなく、騎士の剣や槍を打ったり研いだりもする。手先の器用な者も多く、ちょっとした建具や道具の修理も請け負ってくれるので、城で働く者らにとっては、大変重宝な存在だ。 鍜冶小屋に近づくと、鉄を打つ音が聞こえてきた。炉の前で、ずんぐりした体格の鍜冶師が鉄を打っていた。人間なのに、お伽噺のドワーフにそっくりな彼は、ブラッドが声をかける前に顔を上げた。 打っていた鉄を水を張った盥に入れて、ブラッドに手招きをした。鍜冶師の許可無しに小屋に入ろうとすると、特大の雷が落ちる。 鍜冶師らの気が散るとか、そんな理由ではない。高温の火花が危険だからだ。蛍火よりも小さな火花でも、深い火傷を負うこともある。 鍜冶師に用事のある者は、小屋の外から声をかける。鍜冶師が許可したら、中に入る。簡単な事であるが、守れる者は多くない。しかし、その決まりを律儀に守っているブラッドを鍜冶師らは気に入っていた。 「どうした、ブラッド」 破鐘が坂を転がり落ちるような大声だ。賑やかな鍜冶場にずっといると、誰でも大声になるらしい。 「盥の修理をお願いしたいんです、トーマスさん」 「そのに置いておけ。…ん、何だ、ずぶ濡れじゃねぇか。火の前に来て乾かしな、風邪引いちまうぞ」 「はい、ありがとうございます」 ブラッドは素直に炉の近くに進んだ。濡れたまま竜舎には戻れない。 「ちょうど茶を飲もうと思ってたところだ。お前さんも飲んで行きな」 「ご馳走になります」 ここで遠慮すると、トーマスの雷が落ちる。 最初に訪れた時、今日と同じように香草茶を勧められて遠慮して断ると、小屋が震えるくらいの雷が落とされた。 『ちっさい子供が遠慮なんてするんじゃねぇ』 考えたら、この時から自分はずいぶん小さな子供に思われていたんだな……。 木製の大振りのカップを受け取り、一口、口に含んだ。熱い液体が喉を通り、内側から躰が温まっていく。柑橘系の香りが鼻孔をくすぐる。 飲み終わったら犬舎の掃除をしてから竜舎に戻ろう。

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