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第35話

『竜の移動に協力してもらえないか?』 寝ぼけ眼のブラッドに対し、ローザリンデ辺境伯が頭を下げて言った。 「へ…ええっ?」 高貴な人が自分ごときに頭を下げている。 ブラッドは全身から血の気が引いていくのを自覚しながら、慌てて起きてローザリンデより低く頭を下げた。 「あ、頭をお上げ下さいっ」 「いいや。こちらからお願いするのだ。頭を下げるのは当然のことゆえ」 ローザリンデは頑なに頭を下げたままだ。 高貴な身分の人間には珍しい性格だな、とレオンは思った。仕事柄、 様々な国の城やそれに準ずる場所に出入りしたが、貴族と呼ばれる人間には大きく分けて二種類いた。 血筋による特権階級に胡座をかいて搾取を当然とする者、特権階級を意識して私欲よりも責任を果たそうとする者だ。 レオンが会ったのは、大概が前者だったが、ローザリンデは後者であり、更に物事の本質で何が大事か解っている、稀有な人間だった。 ただ、この城には、もう一人、別な意味で稀有な貴族がいるが……。 ローザリンデはブラッドの両手を取って自分の額に当てた。 「我が騎士団の騎竜を北の砦に、急ぎ届けなくてならない。しかし、どうやら竜たちはブラッドが好き過ぎて、ここから動きたくないらしいのだ」 「え?」 「危険なのは重々承知なのだが、どうか、私と北の砦まで同行願えまいか」 「そんな……」 「調教師のミュラー殿の言では、竜に好かれているブラッドを目印に誘導すれば、竜は素直について行くだろうと」 「ちょっと待て」 言葉もなく青くなっているブラッドを自分の方へ引き寄せ、レオンはローザリンデを制した。 「北の砦は国境に近すぎる。危険だ。そんな所へ連れて行くのは、俺は反対だ」 「ブラッドは、私が責任を持って守る」 レオンが頭を横に振った。 「伯爵殿は責任ある立場だ。危険の際、命の天秤の傾きがどちらかは明白だ」 「しかし、時間が無いのだ。予定より二日も遅れている」 「お貴族様は、下々の者は自分らには命を投げ出して仕えるのが当然だと?」 「否っ! 弱き者を守るのが統治を行う者の、そして我が騎士団の誉れだ」 「言葉では何とでも言える」 レオンは一歩も引く気は無かった。 竜がブラッドに対しての保護欲が異常なほど強いのは感じていた。それは、ブラッドの特殊な生まれが関係しているのだが、それをここで明かすつもりは更々無かった。 一方、ローザリンデも引く気は無かった。何としても竜を連れて帰らないとならない。 「では、辺境伯の領地までならどうだろう?」 唐突に第三者の声がした。 「怖い顔の二人に挟まれて、ブラッドが震えているよ?」 フェリックスが二人の間に割って入った。 「侯爵様……」 泣きそうな顔のブラッドに微笑みかけ、フェリックスは強張った頬を撫でた。 「辺境伯の城は、北の砦まで竜で半日もかからない距離でしたね。そのくらいの距離なら竜も大丈夫でしょう。レオンも、それなら納得するかな?」 「…そうだな。前線でなければ、いいだろう」 どうして本人でなく、レオンが返事をするのだろう……。 「あの、顔を洗ってきます…」 細かな段取りを、何故かレオンが代理となって三人が話し合い始めたので、ブラッドは居たたまれず外に出た。 井戸に行こうと広場を横切ろうと進むと、既に二十数頭の竜と甲冑姿のジークムントがいた。ミュラーをはじめとする調教師も数人おり、竜の食事を運んだり、飲み水を用意したりしていた。 冷たい井戸水で顔を洗ってさっぱりすると、何故、自分なのだろうと、改めて不思議に思った。レオンの言う『竜人族』だからだろうか。 自分は竜に変異したりするのだろうか……。 全然、想像出来ないけど。 顔を手巾で拭いて竜舎に戻ろうとした時、ブラッドの前に調教師見習いの少年が数人囲うように立っていた。 一番年嵩の少年が籐篭を抱えて、ブラッドの行く手を塞いだ。また殴られるのだろうか、とブラッドは暴力を覚悟した。 すると、少年は籐篭をブラッドに差し出した。 「厨房から」 籐篭に被せていた手巾を捲ると、野菜やベーコンを挟んだパンや林檎が入っていた。 「途中で食べて行けってさ」 「あ、ありがとうございます…」 ホッとして、ブラッドは籐篭を受け取ろうと手を伸ばした。ピリピリした気配がしたように感じたのは気のせいだったようだ。 ところが、受け取る前に籐篭が地面に落ちてしまった。ブラッドは慌てて籐篭から飛び出した林檎やパンを拾おうと屈んだ。 その籐篭に足が勢いよく乗せられた。いや、踏みつけられた。 「あーあ。何てことすんだよ、ブラッド」 「勿体ないなぁ」 ブラッドは言葉もなく固まった。何が起きたのか、頭がついていけない。 「おい。どうした?」 少年たちの後ろから声がした。 拾った物を入れて籐篭を抱えてブラッドが見上げると、眉間に皺を寄せたミュラーがいた。 「こいつが、わざわざ厨房からの差し入れを踏みつけたんです。こんな物、食えるかって」 「もっと良い食べ物を寄越せって。自分がいなけりゃ、竜は飛ばないんだそって言って」 少年たちの言葉に、ミュラーの眉間の皺が深くなった。 「ブラッド、今は非常事態なんだぞ。お前の我が儘で予定が遅れたら、調教師全員の責任が問われることになるんだ。それから、食べ物を粗末にするな」 「は、はい……。申し訳…ありま…せん……」 震える唇を何とか動かして、ブラッドは声を絞り出した。

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