36 / 156

第36話

ブラッドは竜舎の裏で、壊れた籐篭の形を何とか整えようと試みた。潰れた部分を伸ばしたり、歪みを直そうと両手で力を加えてみた。 しかし、なかなか歪みが直らず、手を加える程に歪になってしまう。それでも動かし続けている手の甲に、熱い雫が落ちた。 拭おうとして、手を止めた。 擦ったら、目の周りが赤くなってしまう。そうしたら、泣いたことが知られてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。 上を向いて、何とか涙を止める。 「ブラッド、どこかな~?」 竜舎の表の方から、自分を呼ぶ声がした。 ブラッドは慌てて手巾の埃を払い、潰れたパンを無事なパンの下に隠して竜舎の裏からでた。 フェリックスだった。 「そんな所でどうしたの?」 「い、いえ…。何もないです」 「そう? 何かあったら遠慮なく言って。私はいつでもブラッドの味方だからね」 「はい。ありがとうございます」 ブラッドは深く頭を下げた。 フェリックスはブラッドの顔をじっと見つめて、両手で頬を挟んだ。 「君は、強いね」 「侯爵様?」 「さぁ、出立の時間だ。辺境伯を待たせては申し訳ない」 「はい」 籐篭を腕の中に抱え込んで、ブラッドはフェリックスの後を追った。整列した竜の前にローザリンデとジークムントがおり、そこへ駆け寄る人物がいた。 竜舎に来た人だ。癖のある明るい金髪が揺れていた。 「まずいかな」 フェリックスが駆け出した。それに続こうとして、ブラッドはやめた。金髪の人物が王弟であることを思い出したからだ。 「ローザ殿!」 「これはマルティン様、お早うございます」 「前線に、行かれると、聞いたのだが……」 城の奥から走って来たようで、 息を切らしながらマルティンはローザリンデに問うた。 「我が領地は、常に前線ですよ」 今日は晴れてますね、と天気の話をするような軽さだった。 「ローザ殿、出来れば我も行きたいのだが…」 「殿下が軽々しく来られるような処ではござりません」 「兵を率いて行く」 柔らかい微笑を浮かべていたローザリンデの表情が一変した。表情の全てが消え、感情の欠片も読み取れない。 「一兵たりとも、我が領地に入れてはなりません。此度の小競合い、いつもと様子が異なります」 自分より年下のローザリンデに気圧され、マルティンは引くしかなかった。 「この秋から、我は兄上…国王陛下よりこの城の城代を賜ったのだ。もし、援軍が必要となった時は、どうか、遠慮なく頼って欲しい」 北の国境に近いこの城は国王の直轄地だった。一定の期間毎に城代が入れ替り、ここ数年は領地が近いフェリックスが城代を勤めていた。 以前から国王が王弟を城代ではなく、城主として据えようしてい事をフェリックスは相談されていた。城代としての手腕をフェリックスに鍛えて欲しいとも。 自分の領地経営もあり、騎士団長としての勤めもある多忙の身なのだが、少年時代から交流があって断れなかったのだ。 「では、その時は遠慮なく」 ローザリンデはマルティンに微笑みかけ、会話を終わらせた。どうやら大丈夫そうなので、 フェリックスは胸を撫で下ろし、ローザリンデに声をかけた。 「辺境伯、出立されますか」 「そろそろ陽が昇ってしまいそうです。…ブラッド、行きますよ」 離れた処で佇んでいたブラッドを見つけ、ローザリンデが手招きした。周りには、竜の世話していた調教師や見習いの少年たちがおり、一斉にブラッドを振り向いた。 好意的なものは一つもなかった。 忌々しげな眼、敵意剥き出しの眼、羨ましげな眼…。 背を向けて逃げ出したいが、その中を進まなくてはならない。籐篭を抱える腕に力をいれ、震える足を何とか動かして歩いた。 「お貴族様のお馬に乗れるなんて、羨ましいねぇ」 少年の一人がブラッドにだけ聞こえるように言った。 「どうやって取り入ったのさ」 隣の少年が憎々しげに言った。 「侯爵様のをおしゃぶりになったんじゃないの?」 「俺らには真似出来ないねぇ」 フェリックスまでは距離があって聞こえてないようだが、調教師らは見習いの少年たちの会話は聞こえていた。だが、誰一人、見習いの少年たちを嗜める者はいなかった。 俯き、唇を噛む。 途中、ミュラーがブラッドに近づいて来た。 「ブラッド…」 「はい…?」 ミュラーは眉間の皺を深くした。 「伯爵様の処に行ったら、お前は、ここに戻って来るな」 「……え…っ?」 「伯爵様と侯爵様は承知しておられる。お前がここにいると、調教師と竜の間がぎこちなくなってしまう。それでは仕事にならんのだ。お前にいられると、困る」 それだけ言うと、ミュラーはブラッドに背を向けた。 頭の中が真っ白になり、全身が震えた。それでも、どうにかローザリンデの前まで歩けたのは奇跡だった。 フェリックスが何か話しかけてくれたが、ブラッドには聞こえていなかった。分からないまま頷いて、ローザリンデに助勢されて彼女の馬にどうにか股がった。

ともだちにシェアしよう!