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第36話
ブラッドは竜舎の裏で、壊れた籐篭の形を何とか整えようと試みた。潰れた部分を伸ばしたり、歪みを直そうと両手で力を加えてみた。
しかし、なかなか歪みが直らず、手を加える程に歪になってしまう。それでも動かし続けている手の甲に、熱い雫が落ちた。
拭おうとして、手を止めた。
擦ったら、目の周りが赤くなってしまう。そうしたら、泣いたことが知られてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。
上を向いて、何とか涙を止める。
「ブラッド、どこかな~?」
竜舎の表の方から、自分を呼ぶ声がした。
ブラッドは慌てて手巾の埃を払い、潰れたパンを無事なパンの下に隠して竜舎の裏からでた。
フェリックスだった。
「そんな所でどうしたの?」
「い、いえ…。何もないです」
「そう? 何かあったら遠慮なく言って。私はいつでもブラッドの味方だからね」
「はい。ありがとうございます」
ブラッドは深く頭を下げた。
フェリックスはブラッドの顔をじっと見つめて、両手で頬を挟んだ。
「君は、強いね」
「侯爵様?」
「さぁ、出立の時間だ。辺境伯を待たせては申し訳ない」
「はい」
籐篭を腕の中に抱え込んで、ブラッドはフェリックスの後を追った。整列した竜の前にローザリンデとジークムントがおり、そこへ駆け寄る人物がいた。
竜舎に来た人だ。癖のある明るい金髪が揺れていた。
「まずいかな」
フェリックスが駆け出した。それに続こうとして、ブラッドはやめた。金髪の人物が王弟であることを思い出したからだ。
「ローザ殿!」
「これはマルティン様、お早うございます」
「前線に、行かれると、聞いたのだが……」
城の奥から走って来たようで、 息を切らしながらマルティンはローザリンデに問うた。
「我が領地は、常に前線ですよ」
今日は晴れてますね、と天気の話をするような軽さだった。
「ローザ殿、出来れば我も行きたいのだが…」
「殿下が軽々しく来られるような処ではござりません」
「兵を率いて行く」
柔らかい微笑を浮かべていたローザリンデの表情が一変した。表情の全てが消え、感情の欠片も読み取れない。
「一兵たりとも、我が領地に入れてはなりません。此度の小競合い、いつもと様子が異なります」
自分より年下のローザリンデに気圧され、マルティンは引くしかなかった。
「この秋から、我は兄上…国王陛下よりこの城の城代を賜ったのだ。もし、援軍が必要となった時は、どうか、遠慮なく頼って欲しい」
北の国境に近いこの城は国王の直轄地だった。一定の期間毎に城代が入れ替り、ここ数年は領地が近いフェリックスが城代を勤めていた。
以前から国王が王弟を城代ではなく、城主として据えようしてい事をフェリックスは相談されていた。城代としての手腕をフェリックスに鍛えて欲しいとも。
自分の領地経営もあり、騎士団長としての勤めもある多忙の身なのだが、少年時代から交流があって断れなかったのだ。
「では、その時は遠慮なく」
ローザリンデはマルティンに微笑みかけ、会話を終わらせた。どうやら大丈夫そうなので、
フェリックスは胸を撫で下ろし、ローザリンデに声をかけた。
「辺境伯、出立されますか」
「そろそろ陽が昇ってしまいそうです。…ブラッド、行きますよ」
離れた処で佇んでいたブラッドを見つけ、ローザリンデが手招きした。周りには、竜の世話していた調教師や見習いの少年たちがおり、一斉にブラッドを振り向いた。
好意的なものは一つもなかった。
忌々しげな眼、敵意剥き出しの眼、羨ましげな眼…。
背を向けて逃げ出したいが、その中を進まなくてはならない。籐篭を抱える腕に力をいれ、震える足を何とか動かして歩いた。
「お貴族様のお馬に乗れるなんて、羨ましいねぇ」
少年の一人がブラッドにだけ聞こえるように言った。
「どうやって取り入ったのさ」
隣の少年が憎々しげに言った。
「侯爵様のをおしゃぶりになったんじゃないの?」
「俺らには真似出来ないねぇ」
フェリックスまでは距離があって聞こえてないようだが、調教師らは見習いの少年たちの会話は聞こえていた。だが、誰一人、見習いの少年たちを嗜める者はいなかった。
俯き、唇を噛む。
途中、ミュラーがブラッドに近づいて来た。
「ブラッド…」
「はい…?」
ミュラーは眉間の皺を深くした。
「伯爵様の処に行ったら、お前は、ここに戻って来るな」
「……え…っ?」
「伯爵様と侯爵様は承知しておられる。お前がここにいると、調教師と竜の間がぎこちなくなってしまう。それでは仕事にならんのだ。お前にいられると、困る」
それだけ言うと、ミュラーはブラッドに背を向けた。
頭の中が真っ白になり、全身が震えた。それでも、どうにかローザリンデの前まで歩けたのは奇跡だった。
フェリックスが何か話しかけてくれたが、ブラッドには聞こえていなかった。分からないまま頷いて、ローザリンデに助勢されて彼女の馬にどうにか股がった。
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