38 / 156

第38話

グリューンの傍らにある卵が、仄かに熱を帯始めた。レオンは卵にそっと耳を当てた。 内側から殻を擦る音がした。 耳を離し、グリューンを見上げると、翠の瞳がレオンを映していた。 「一両日には出てきそうだな」 ≪はい、公子≫ 「ブラッドに見せてやりたかったな……」 ブラッドと竜たちが飛び立ったのは気配で分かっていた。ブラッドの『気』は覚えた。これからは、どこに行っても見失うことはない。 孵化し、雛が落ち着くまで七日余りだ。 すぐにでもブラッドの後を追いたいが、孵化だけでは済まない。辺境伯の騎竜であるグリューンの落ちた筋肉や体力を回復させなければならない。 調教師らの仕事であるが、それでは間に合わない。北の軍が、グリューンが回復するまで侵攻しない保証はないからだ。 グリューンは雌でありながら、辺境伯である重装騎士団長の騎竜に相応しい体躯をしている。力も雄に劣らず、魔力の保有量も多い。 「奥の手を使うか…」 呟き、グリューンの鼻を撫でた。 満月が中天に昇る頃、ついに卵の殻に内側からひびが入った。 「割るのを手伝わなくてもいいのかな?」 孵化の場に、何故か調教師のミュラーと共にフェリックスがいた。調教師のミュラーがいるのは当然として、子供のように無邪気な笑顔で孵化に立ち会いたいと言われれば拒否も出来ない。 レオンは孵化に集中する事にした。 殻の割れ目から嘴が出始めた。まだ、頭が出る程の大きさではないが、時々、眼らしい光が覗く。 紅い。 ブラッドの髪のようだ。 割れ目から初々しい魔力が漏れてきた。触れずとも、レオンには雛の属性が視えていた。 火属性だ。 別の場所から勢い良く脚が出た。 「おやおや、ずいぶんやんちゃのようだね」 フェリックスがくすり、と笑った。 脚が引っ込み、今度はしっぽがぴょん、と飛び出した。しっぽが上下左右に動き、穴を広げていく。そのしっぽが引っ込んだ途端、殻が二つにわれて雛が露になった。 グリューンが雛が被っていた殻を取ってやると、くりくりした眼で彼女を凝視した。 「大丈夫そうだ」 レオンが雛を持ち上げ、くるくる回して全身をくまなく見た。 「そんなに乱暴に扱って大丈夫なのか?」 ミュラーが心配気に訊いた。 長年、竜の調教師をしているが、孵化に立ち会うのはほんの数回しかない。それも、弟子に成り立てた頃で、立ち会ったが詳しく見せては貰えなかった。 「竜の雛は眼が開いていれば問題ない。こいつはグリューンから充分に魔力を貰っている。殻を全部食べ終わる頃には翼を動かせるようになるが、飛ぶのは一ヶ月くらいかかるだろう」 「雌雄は分かるかな?」 「雄だ。しっぽの根本が太い。属性は火だな」 「火属性!」 フェリックスとミュラーが同時に声を上げた。火属性は稀だからだ。自然でも滅多に生まれない。 「じゃあ、火を吐いたりするのかな?」 フェリックスの問いにレオンは頷いた。 「育て方次第では、かなり高位の火属性の竜になる」 レオンの言葉にミュラーは固い表情で頷いた。 「心得よう」 殻を割って力尽きたのか、グリューンの腕に返すと雛はすぐに眠ってしまった。 「暫くは、殻を食べて寝ての繰り返しだな。魔力はグリューンが与えてくれるから心配はいらない。殻を食べ尽くしたら果物から食べさせてみたらいい。人の出入りは必要最小限で。まだ抵抗力が弱いから、出入りする者は手を良く洗って、足の裏の泥はきちんと拭き取る」 調教師の自分より、卵売りの方が詳しい。ミュラーは自尊心より知識を得る事を選び、細々したことをレオンに何度か訊ね、宿舎に戻って行った。 残ったフェリックスは柵越しに眠る雛を見ていた。 「ブラッドに立ち会わせたかったねぇ?」 「…そうだな」 「行かせて正解だった?」 フェリックスの榛色の瞳がきらりと光った。 「…そうだな…。どのみち、ブラッドがここにいたら遅かれ早かれ竜は、騎竜としての能力が機能しなくなる」 「竜の愛し子だから…?」 レオンの鋭い眼をフェリックスは真っ向から受け取った。 「愛し子をどのくらい知っている?」 フェリックスはレオンの視線を外さずに答えた。 「私が知っている事は少ないよ。家にあった古い文献から、ブラッドの瞳の特徴と竜の態度からの推測に過ぎない」 「……」 「ブラッドは竜人族だよね?」 「……」 「そして、レオン。あなたもだ」 レオンは短く息を吐き、眼を閉じた。長くはない。再び開いたレオンの眼は、蒼穹の中心が黄金色の縦長になっていた。 「レオンハルト・ブラーゼン・リリエンタール。それが俺の名前だ」

ともだちにシェアしよう!