41 / 156
第41話
深く、暗い、冷たい水底でブラッドは目が覚めた……ような気がした。
誰かの名前を呼ぼうとして口を開くと、コポリ、と泡が浮かんだ。光も届かない水底なのに、浮かんで小さくなっていく泡は何故か見えた。
変なの。
水の中なのに苦しくない。
ブラッドは遠退く泡に向かって手を伸ばした。
掴もうと手を広げた。
握る。
泡は握った指の間からすり抜けてしまった。
小さい気泡が硝子のようにキラキラ光りながら、更に小さく分裂していく。
きれい。
グリューンの歌みたい。
ああ、そうだ…卵はどうなったのかな……。
散漫しかけた思考が集約していった。
自分は馬に乗っていた筈ではなかったか。伯爵様と一緒に……。
「……ぼくは……」
水の中から浮き上がるようにブラッドは目が覚めた。長く眼を閉じていたせいか、眼球が乾いて瞼が上手く開けられない。目を瞬くと、漸く焦点が合ってきた。
見慣れない天井だ。
格子の升目にそれぞれ円があり、その中に草花が描かれていた。象牙色に青い小さな花が壁一面に描かれ、暖炉の周囲は様々な色の木で組まれている。
そんなに広い部屋ではない。設えられた机と椅子も大きくない。
子供部屋……?
段々と頭の中がはっきりしていく。
自分が、今、寝ている寝台と、恐ろしく肌触りのよい掛け布団と敷布。着ている寝巻は、もしや、絹……?
心地好さよりも恐れ多さに冷や汗が流れ、躰が小刻みに震えた。
とにかく、起きなきゃ……。
ブラッドは慌てて起き上がって寝台から降りた。そのとたん、両足から力が抜けて、寝台の側にあった椅子を巻き込んでひっくり返ってしまった。
「何事じゃっ」
椅子の倒れる騒音に、朝食を食べ終えて部屋に戻る途中だったアナキンが慌てて入って来て、椅子ごとひっくり返っているブラッドを発見した。
「何をしておるんじゃ、小僧」
椅子を除けてやり、アナキンはブラッドを抱き起こした。同年代に比べて遥かに軽いブラッドの躰に、内心、舌打ちをしながら寝台の上に戻す。
「あ、あの、ぼく、その、ごめんなさいっ」
「?」
「もう、大丈夫なので、その、ぼくの服は」
どこでしょうか、と続けようとしたブラッドの脳天にアナキンは拳骨を落とした。
「何が大丈夫だ! お前は医者か!?」
「い、いえ、違います……」
拳骨を落とされ、じんじんする頭を両手で押さえ、涙目でブラッドは答えた。
「医者でもない者が勝手に診断するでないっ」
医師らしい老人の迫力に圧され、ブラッドは謝罪して項垂れた。
「腹が空いておるだろう、今、羮でも用意させる」
特に空腹を感じてないブラッドは、首を傾げて医師を見た。
「お腹…空いてないので…」
用意してもらうなんて、とんでもない……。
「三日も寝込んでて、空いたのが分からんだけじゃっ!! 馬鹿者がっ!!」
「ご、ごめんなさいっ」
「どれ、顔を見せてみろ。……うむ。顔色も良くなってきた。まずは腹拵えだ。それから少しずつ動くようにすればいい」
「はい……」
おじいちゃん神官様みたいだ…。
決して、大声で怒鳴る事など無かったが、仏頂面ながらも相手を心配してくれる雰囲気が同じだった。
運ばれて来た器からは湯気が立っていた。ブラッドが目覚めたのを聞いた厨房の料理人が温め直したのだ。
ブラッドは申し訳なさと、寝台で食事をするという行為に戸惑った。器を受け取ったものの、溢さないように食べるにはどうすればいいのか分からず、固まってしまった。
それを遠慮と取ったのか、アナキンがブラッド手から匙と器を取り上げた。
「アナキン様?」
羮を持ってきた伯爵家の家宰…コンラートが慌てた。伯爵家のかかりつけの医師は気が短い。
だが、アナキンは取り上げた羮をすくった匙をブラッドの口に持っていった。
「食え」
「え、あ…」
「もっと口を大きく開けろ。匙が入らん」
「は、はいっ」
思わず大きく開けた口にアナキンは匙を…言葉遣いのわりに優しく入れた。
温かい液体が口の中に広がり、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐりながら喉を落ちていった。牛骨から出汁を取り、野菜が形を無くすまで煮込まれた羮だった。
「美味しい……」
言葉が零れた。
「あなたが目覚めたら、絶対食べさせて欲しいとお館様が申しておられた、我が伯爵家自慢の羮です」
コンラートはブラッドの戸惑いの原因を察し、持っていた布巾を掛け布団の上に広げた。
「遠慮なさらず、食べられそうな分だけでもお腹に入れた方が良いですよ」
黒髪をきっちり撫で付け、医師より十歳ほど若く見えるコンラートは、更にブラッドの胸にも布巾を掛けた。
アナキンは器をブラッドに戻し、食べるよう促した。
ゆっくり、少しずつではあるが、自分で食べ始めたブラッドに満足し、アナキンとコンラートは部屋を出た。自分達がいない方が気を使わないで食べられるだろうと考えてだ。
ブラッドは感謝し、ゆっくりと羮を味わって食べた。
廊下に出た二人は、部屋の扉を閉めきらず、少し開けておいた。体調の異変に、すぐに気がつくようにする為だ。
ブラッドが目覚めた直後にローザリンデには知らせが走っていた。程なく、ローザリンデが館に着いたと家人が二人の所に知らせに来た。
玄関で出迎えていた使用人がローザリンデから外していた籠手を受け取っていた。
「お帰りなさいませ、お館様」
「ブラッドが目覚めたと聞いた。体調はどうなのだ?」
「今、羮を召し上がっております」
「顔色も、運ばれて来た時とは比べ物にならんくらい良くなっておるわい」
「良かった……。様子を見に行っても大丈夫かな?」
ローザリンデの問に答えず、アナキンは彼女の顔を見上げた。顔と言うより、眼を見ているようだ。
「お嬢……」
「どうしたのだ、老。そのような厳しい顔をして……まさか、ブラッドは、本当は良くないのか?」
「いや、小僧の体調は心配いらん」
「なら、そのような顔をしないで貰いたいな」
「お嬢、あの小僧はどこで拾ってきた?」
鎧から外套を外していたローザリンデは老医師をまじまじと見た。
「犬猫を拾って来たみたいに言うな」
「お嬢、あの小僧の出自ははっきりしておるのか?」
ローザリンデは嘆息をついた。
見ると、コンラートもアナキンと似たような強張った表情をしていた。
「どうしたのだ、二人とも。ブラッドは孤児で両親は分からん。それがどうしたのだ」
「あの小僧、先代の隠し子じゃないのか?」
ローザリンデは口を開いた。
ともだちにシェアしよう!