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第57話

ジークムントに乞われ、レオンが渋々診療所に向かったので、ブラッドは一人でシルヴァンの世話をしていた。水を与え、躰を丁寧に拭いて、爪を磨く。 そこへ、よたよたと蛇行をしながら馬が近づいて来たかと思うと、乗り手が落馬するように降りた。 白銀髪を振り乱したユリウスだった。 ここに到着するまでに何度か落馬したのだろうか。膝や肘が擦り切れ、頭から泥と埃を被っていた。 「…ユリウスさん? 大丈夫ですか?」 声をかけたとたん、ユリウスは我に返ったような顔になり、 ブラッドの顔を息を詰めて凝視した。 「ユ、ユリウス、さん…?」 ユリウスが凝視していたのは自分の顔ではなく、前髪の間からのぞく…眼だ。何やら背中がぞわぞわする。思わずブラッドは一歩退いていた。 「ブラッド、頼みますっ」 両手両膝をついたかと思うと、ユリウスは額を地面に擦りつけた。 「君の血を下さいっ」 「ユリウス、さん……?」 「砦の皆を助けるために、君の血が必要なんです。お願いします。このままでは…皆が、辺境伯も竜も死んでしまうんです…」 絞り出すようなユリウスの訴えに、ブラッドは心臓を胸ごと鷲掴みされた。 しかし、レオンからは、おいそれと血を与えてはならないと言われている。 「で、でも、あの、ぼくは……」 ユリウスが勢い良く起き上がり、ブラッドの両腕を掴んだ。指が食い込んでくる。痛みに顔を顰めたが、ユリウスは気がつかないのか力は緩まない。 「君は『竜の愛し子』でしょう?! 助けられる筈です。出来ることはやりつくしました。もう、私では救う術が無いのです。残っているのは、君の血に頼るしか無いんですっ」 「ユリウスさん…」 「『病』に罹った者の中には、もう、起き上がれない者もいます。何より、竜が飛べないんです!」 竜が飛べない? 飛翔する美しい姿が思い出された。 人間が、決して自らの力では届かない空を自由に飛ぶ竜が……飛べない……? 「グリューンも……?」 「グリューン? 辺境伯の竜ですね。グリューンは、まだ、何とか飛べるようですが、辺境伯も『病』に罹ってます。相当お躰が辛い筈なのですが、気丈にも前線で指揮をとっておられます」 「前線……」 ユリウスが大きく頷いて馬の手綱を引き寄せた。 「北方軍の攻撃が始まりました。万全な状態ではない辺境軍は押されています…」 ブラッドは頭から血の気が引いていくのを感じた。喉が渇き、手足が震え、膝に力が入らない。 「一緒に来て下さい。お願いします」 ユリウスに手を引かれるまま、ブラッドは彼によって鞍の上に乗せられていた。後ろにユリウスが乗り、馬の腹を蹴った。 馬が駆け出したところで、はっと我に返った。 レオンに、何も言ってない……。 「あ、あのっ…」 「喋らないで。舌を噛みます。私は、馬は得意ではないので」 「は、はい…。すみません……」 診療所を振り返る事も出来ず、ブラッドは森が深くなる道を見た。国境を隔てる渓谷へ続く森だ。防衛の為、森は深く密集している。 定期的に枝払いなどの手入れはしているが、高い針葉樹林からなる森に入ると、太陽の光が遮られ、暗く、空気がひんやりしていた。 時々、木漏れ日なのか、鮮やかな光彩の薄い膜がブラッドたちを覆う。眼がチカチカし、何度か瞬きをした。光りの残像が瞼の裏に残る。 眼を擦っていると、ユリウスがそれに気がついて馬の歩みを緩めた。 「眼が良いですね。竜の愛し子だから分かるのかな? この森には防衛用の結界が張られているんですよ」 「結界?」 「はい。ああ、あまり擦らないで、赤くなってます。結界は森への侵入者を迷わせる効果があるんです」 迷わせる……。 「私たちは大丈夫ですよ」 ユリウスは懐から複雑な紋様の彫られた、掌大の記章を取り出した。 「この記章があるので、私たちは迷う事はありません。砦まで、もう少しかかります。急ぎますよ」 ユリウスは危なげな手綱捌きで、再び馬を走らせた。 『北方では竜を食べている』 この噂は竜の卵売りの間では、十年程前から真しやかに流れていた。 ジークムントとアルベルトは蒼白になって口を手で押さえた。竜騎士にとっての竜は相棒であり家族だ。身内を食べるのと一緒なのだ。 「あ、いや。本当に竜を食べているいる訳ではないぞ」 レオンは慌てて二人の想像を否定した。 「比喩だ、比喩」 二人はほっとするとともに、恨めしげにレオンを見た。 「すまん、すまん。…だが、竜の『消費』が激しいのは事実だ」 卵売りの中には、北方軍に固定数を売るという契約をする者も少なくない。一個ずつ交渉するより簡単で、金額も金払いも良い。 他国より高く売れる。卵売りは積極的に北方へと向かった。 その内、あれだけ竜の卵を買う資金の出所を疑問に思い、探ろうとした者が行方知れずになった。売った卵と竜の数が合わない。卵売りが孵化に立ち会う事と、調教師と会話する事が禁止された。 更に、北方軍から大金を受け取り、引退した卵売りの消息が分からなくなった。それは、一人や二人ではない。 同じ頃、大陸全土を凶作が襲った。 備蓄のあった中央大陸の国でさえ、少なくない餓死者を出した。穀物類を輸入に頼っていた北方での餓死者は、国民の三分の一に上ったとされている。 しかし、依然、竜の卵の購入は減らない。 そこから、北方では竜を食べる事で凶作を乗り切ろうとしたのではないか、と卵売りの間で噂されるようになったのだ。 「どこかと紛争していると言う事も聞かない。それなのに、卵の購入は続いている。……その上、この鱗だ」 鱗を突ついて、ジークムントはアルベルトを見た。 「北方軍は、何をしていた?」 アルベルトは躊躇った。ジークムントは同じ騎士団だが、レオンは部外者だ。だが、竜の卵売りでもある。 「レオンなら大丈夫だ。俺たちとは別口の情報がある。それと擦り合わせてみよう」 アルベルトは頷いた。 「北方軍を伺っていた時に気がついたのだが…北方軍では竜と絆を結んでいる気配が感じられなかった」 「絆を結ばないで、どうやって乗るんだ?」 「良く分からないが、竜騎士が竜の世話をしたり対話をしたりする様子は無かった」 「調教師に任せきりか」 「俺が知る調教師とは、何だか雰囲気が違ってて……何と言うか、医師と言うか……」 口籠って黙ったアルベルトをジークムントが無言で促した。 「その、俺の私見なんだが、雰囲気がユリウス先生を……こう、もっと偏執的にしたような感じで気色悪かったんだ」 「先生より狂科学者がいるのか」 「それに、変な臭いが充満していた。診療所や薬屋の薬草の匂いとは違って、躰から力が抜けていくような、妙な甘さのある臭いだった」 唐突に、レオンが音を立てて椅子から立ち上がった。 「ブラッドの気配が消えた!」

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