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第58話

ブラッドの気配が消えた。 確かにあった温もりが手の中からすり抜けていった。自分の心臓の上にある鱗をブラッドの額に埋めたのだ。簡単に見失ったりしない。 卵を処分したと告げられた時以上の喪失感にレオンは狼狽していた。 慌てて外に出た。 竜の世話をしていたブラッドの姿が無い。ふわふわと赤毛を揺らし、竜の鱗を丁寧に拭いていた筈だ。 ≪ブラッド!!≫ 心話で叫んでみた。 シルヴァンが躰を揺らし、レオンを見た。 ≪ブラッドッ、どこだ!?≫ 心話で叫んだ声は、虚しく空間に吸い込まれた。泥の沼に棒を突き立てているように手応えが無い。 「キュウ……」 シルヴァンが気遣わしげに声をあげた。その足元には、ブラッドらしからぬ、仕事の道具が置きっぱなしなっていた。 「レオンッ。ブラッドはいたかっ?」 ジークムントがアルベルトに肩を貸しながら出て来た。レオンの悄然とした背中に、ブラッドがいない事を二人は悟った。 「…シルヴァン。ブラッドは何処へ行った?」 レオンが訊ねると、シルヴァンは恭しく頭を垂れて居ずまいを正した。その仕草にジークムントが眼を大きく見開いた。 「お、おっ前、俺には、そんな殊勝な態度しねぇじゃねぇか!」 絆の相手を無視し、シルヴァンはレオンの問いに答えた。 ≪公子に申し上げます。愛し子は、白い髪の男と共に、馬で行きました≫ 「行き先は分かるか」 シルヴァンは首を横に振った。 ≪確とは分かりません。北の森の方へ行きました≫ レオンがジークムントを振り返った。 「北の森とは、国境の森の事か?」 「そうだが…。え? シルヴァンの言葉が分かるのか?!」 「お前たち竜騎士だって、竜と会話出来るだろう。存外、竜たちはお喋りだぞ」 「待て待て待てっ」 二人は慌てた。 「何か、機嫌か良いか悪いかとか、好き嫌いとかははっきり分かるのが、明確な言葉なんて、分からんぞっ」 「何だ。それが分かるかなら、会話はすぐに出来るようになる。それより、森の向こうに何がうる?」 二人は顔を見合わせて、嘆息を吐いた。 今は竜より、いなくなったブラッドだ。 「白い髪の男とは、医師のユリウスだろう?」 「ユリウス先生が連れて行ったと言うことは、砦で人手が足りなくなってブラッドを連れて行ったのかもしれない」 アルベルトが答えた。 「北方軍が砦に疫病の元らしい物を放置したようだから」 「疫病?」 北方軍を偵察していた時、頑丈に封をした樽を目撃した。黒い布でぐるぐる巻きにし、見慣れない紋様を描いた紙が貼られていた。 「その樽の中身を砦近くにばら蒔いたと聞いた。何の病原体から分からないが、効果が出るまで暫くかかる、と。大体の軍の規模が分かったから戻ろうとした時、同じように黒い布で覆われた壺を抱えて陣を離れた者たちがいたので、そいつらより早く戻らねば、と急いだのだが……この様だ」 「病原体…」 何やら、背筋がぞわぞわし、ジークムントは躰を揺すった。 「けどさ、国境の森には『迷いの結界』が張られている筈だ。どうやって、あいつらは砦に近づいたんだ?」 「『迷いの結界』?」 ジークムントが頷いた。 「北方とは、完全に国交が無い訳じゃない。商隊や旅人が決められた街道を通る分には問題ないし、関所で身元や荷物の確認をするからな」 『迷いの結界』が張り巡らされた森の街道を通ったからブラッドの気配が消えたのだろう。だが、その程度で気配が追えない程度の繋りではない筈なのだが…。 「だが、砦に行くには街道から外れるから、結界を抜けるための紀章が必要なんだがな…」 ジークムントは疑問が解消されず、眉間の皺を深くした。 紀章の所持数は国内の各城ごとに決められており、予備等は作られていない。許可無く貸出しは禁じられており、各城での管理も厳しい。 辺境領では騎士団が管理しており、常に団員は数を把握している。 「砦に副団長の竜を届けに行くから、紀章の確認とブラッドの様子を見て来ようと思う」 ジークムントが言うと、 「じゃあ、俺が城に確認しに行くよ」 アルベルトが提案した。 「何言ってんだ! せっかく塞いだ傷口が開いたらどうするんだ」 「しかし、事が事だ。鳩を飛ばして、万が一が無いとも限らない…」 どちらも退かない様子に、レオンは自分が行くと申し出た。本当は、今すぐにでもブラッドを追いたいところなのだが、レオン自身も確かめたい事があった。 「でも…」 アルベルトは承諾するのに躊躇った。 「分かった。兄上に先触れの鳩を飛ばそう」 ジークムントは一瞬の躊躇も無かった。 時間が惜しいのだ。それに、レオンは全くの部外者と言う訳でもない。 「いや、すぐに立つ。その代わり、ブラッドを頼んだぞ」 「任せろ。ブラッドの事は、兄上と同様に俺も気に入ってるからな」 ジークムントに支えられて立っていたアルベルトは、何となく躰を僅かに離した。それをジークムントはふらついたと勘違いしたのか、アルベルトの腰に回していた腕に力を込めた。 (困ったな……) アルベルトは、どうやって離れようかと俯いて思案した。 「傷が痛むのか? 診療所に戻って休もう」 心配そうに顔を覗き込んだジークムントに、慌てて首を横に振った。 「い、いや。大丈夫だ。その、お前の兄上…侯爵って、お前と違って紳士で優しいよな」 「兄上に会った事があるのか?」 「ああ、一回だけだが…。馴れ馴れしくなんか、してないぞ」 眉を顰めたジークムントに、アルベルトは慌てた。大事な兄に、庶民の自分が親しくしてくれた事に気分を害したと思ったからだ。 「その時、兄上はお前に何か言ったか?」 「特には……、同じ騎士団だと言ったら、弟を宜しく、と……」 「それだけか?」 「…何かあったら、自分を頼るように、と」 高位の貴族に緊張していたアルベルトに、フェリックスは優しく微笑み、背中を撫でてくれた。整い過ぎた容貌は無表情だと氷の彫像を思わせる印象だったが、微笑まれると不覚にも動悸が激しくなり、更に緊張してしまったのだが…。 『君がジークの同期のアルベルト君か。やんちゃで落ち着きのない弟だが、宜しく頼むよ。ああ、くせっ毛なのに柔らかい黒髪だね。可愛いね。辺境伯から将来有望だと聞いているよ。彼女の所は人材が豊富だね、羨ましいよ。私の騎士団に引き抜きたいが、どうだろう?』 緊張のため、半分は覚えていないが、弟の同期だから声を掛けてくれただけだと思う。 「あーっ、もう、油断も隙も無いなっ」 ジークムントが空いている手で頭を掻きむしった。 「お前、もう、兄上に会うな!」 「あ、会うなも何も…、あの方は侯爵だろう? そうそう、俺みたいなのが会える人でもないし… 」 「くそうっ、油断した。可愛くて聡明で天然なんて、兄上の好みドンピシャじゃんか」 ジークムントが何に憤っているのかアルベルトには見当もつかなかった。そこへ、レオンが苦笑してジークムントの肩に手を置いた。 「素直に捕まえておかないと、侯爵に持っていかれるぞ」 「…あんただって、ブラッドを手に入れたつもりかもしれないが、信頼度で言えば兄上に負けてるんだからな。油断するなよっ」 睨み合う二人の理由は分からず、アルベルトはきょとん、とした。 (入団した当初は俺より小さかったのに、いつの間にか背も体格も抜かされたな。けど、兄上を取られまいと俺なんかを牽制するなんて、まだまだ子供だなぁ)

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