59 / 156

第59話

どうにか砦に着いて馬を降りたブラッドは、懸命に膝に力を入れて立った。 ユリウスの手綱を無視し、馬は自身の判断で砦に辿り着いたようだ。二人が降りると、馬は悠々と自分で厩舎に向かった。 厩舎には若い騎士が数人おり、馬の世話をしているようだった。厩舎の水槽に桶で新しい水を注いでいる。 その様子を何となく見ていたブラッドは、水から立ち昇る黒い陽炎のような霞に気がついた。それは禍々しく、ねっとりと纏いつく蜘蛛の糸の塊のようだった。 「ユリウス先生……、あの水は……」 「水ですか? 水は最初に調べましたよ。井戸には、何も病気の原因になりそうな物は入ってませんでした。念のため、飲み水は煮沸して飲むようにしてます」 馬はよほど喉が渇いていたのか、音を立てて旨そうに水を飲んでいる。黒い靄は馬を撫でるように纏わりついたが、するりと落ちて地面を漂った。 だが、ブラッドには霞が諦めずに馬に纏わりつこうとしているように見えた。 「…先生、あの水は、やめた方が……」 砦全体が、あの黒い霞が纏わりついているようにブラッドには見えた。それは、躰を芯から冷やし、地面の中に引き摺り込もうとしているようにも感じられた。 「煮沸してるのに…ですか?」 「汚れている…とかじゃないと思います」 ブラッドは、懸命に言葉を選んだ。自分の感じている事をどうやって言葉にするか。 「何と言うか……黒い煙みたいな物が見えて、それが不吉な蜘蛛の巣が広がっているように感じられるんです」 「それは、愛し子だから分かるという事ですか?」 ブラッドは頭を横に振った。 「そういうのは、よく分かりません。でも、あの水が良くない物だという事は分かります。馬も人も……多分、竜も」 「…分かりました。飲み水は近くの河から汲んで来る事にしましょう」 ユリウスは厩舎の騎士たちに指示し、炊事担当にも伝えてくれるよう頼んだ。 「これで良いでしょう。さ、行きますよ、ブラッド」 足を踏み出しかけて、ブラッドは躊躇った。 「ブラッド?」 「あ、あの、ぼくの血って、どのくらい必要なんですか?」 「一人に二、三滴程度、と思ってますが…」 「う……」 『血を与える』という行為は、自らを刃物で傷つけなければならない。痛いだろう事は、容易に想像出来る。 ブラッドの背中を冷や汗が流れた。気持ちが挫けそうになる。 「あ、あの…、ぼくの血は…」 竜騎士以外の人には…と続けようとした時、講堂の扉が開いた。 「ユリウス、どこに行っていた…ブラッド?! どうしてここにいるんだ? 」 水色の瞳を大きく見開いて、ラファエルがブラッドとユリウスを交互に見た。ユリウスのばつの悪そうな表情に、ラファエルはハッとし、全てを悟った。 「お前っ…!」 「ちょ、ちょっと、声が大きいっ」 講堂を振り返ったラファエルは、秀麗な顔に似合わない舌打ちをし、二人を建物の陰に引っ張った。 「お前は…、何をしようとしているか、分かっているのかっ!」 声量は押さえているが、口調は重く厳しい。 「我々は団長より、ブラッドに毛一筋傷つけてはならないと命令されてるんだ。お前がやろうとしている事は、ブラッドを傷つける行為だろうっ!」 この幼馴染みは、竜人族を狂信的な程研究しており、一般的な道徳を持ち合わせてるとは言えない部分があるが、一線を越える事はないと信じていたのだが…。 「ラファエル、聞いてくれ」 縋りついたユリウスの手を払い、ラファエルはブラッドの肩を抱いた。 「館まで送ろう。こんな変人の言う事を真に受けたら駄目だ」 「でも、ぼくに出来る事なら、何でもしたいんです……」 ラファエルの形の良い眉が跳ね上がった。 「献身と犠牲は違う」 「わ、分かってます。でも、苦しんでる人が助かるかもしれないなら……」 「ほら、本人も言ってるし…」 「お前は黙ってろ」 嘆息を吐いてラファエルは前髪を掻き上げた。顔が青白い。本当は、立って歩くのも辛い状態なのかもしれない。 「ブラッド、君は自分が何者なのか分かっているのか?」 ブラッドは躊躇いながら、 「多分…」 と、呟いた。 「本当に理解してるのか? 君に何かあったら、竜たちが暴走するかもしれないんたぞ」 どういう事かと、ブラッドはラファエルを見上げた。 「この馬鹿が集めた文献によれば『竜の愛し子』と竜との繋がりは、竜騎士との繋がりとは別個の強固さがある。太古『愛し子』を殺害され、竜の暴走によっていくつもの国が滅んでいるんだ」 ブラッドは、こくり、と息を飲んだ。 「分かるか? うちの団長は感情のままとか、意味の無い命令を下したりしない。君が大事なのは確かだが、自分の領地が危機に陥るのを防ぐ為の命令でもあるんだ」 ブラッドは視線を落とした。 恥ずかしい、と思った。 ユリウスに促されたとは言え、大勢の人と竜を何の取り柄もない自分が救えるかもしれない。そう思って舞い上がっていた部分があったのは事実だ。人から蔑まされていた自分が、感謝される側になるのだ。 そうすれば、堂々とレオンの隣に立てる。彼の手を取る資格を得るのではないか、と。 俯いたブラッドの頭に、ラファエルは優しく手を置いた。子供相手に、言い過ぎてしまったと思ったからだ。 「子供を傷つけてまで助かろうなど、騎士の名折れだ。人から見たら、くだらない騎士の矜持に、君が付き合う事はない」 赤毛を優しく撫で、ラファエルはユリウスに向き直った。 「お前も医師なら、実の無いものに縋るな。病気が治せないなら、一時的でもいい、体力を回復させる薬を作ってくれ」 「う…ん……」 叱られて、子供のように悄然としたユリウスの背中をラファエルが叩いた。 「とにかく時間が無い。頼むぞ」 「…任せて」 深く頷き、ユリウスはブラッドに深々と頭を下げた。 「申し訳ありませんでした。力不足を不確かなもので補おうなど、医師として失格です」 「先生……」 「改めてお願いします。私の助手をして下さいませんか?」 「ユリウスッ。お前…っ!」 ユリウスは慌てて頭を横に振った。 「違いますっ。もう、血が欲しいとか、そんな事は望みません。ただ、ブラッドは私達には見えないものが見えているようなので、それで助けて欲しいのです」 「見えないもの……?」 ユリウスは水の件を説明した。 「黒い、靄……」 「そうです。私の書庫に該当する文献がないか調べたい。ブラッド、薬草の処方を教えます。それで薬湯を作って下さい。その間、私は街に戻って書庫を調べます」 ラファエルは短い時間逡巡し、ブラッドを見た。 「ぼくに出来る事を手伝わせて下さい」 先程までの、おどおどとした雰囲気は無く、金環の瞳に強い光があった。 「…分かった。責任は私が持つ。ユリウスを手伝ってくれ。それから、街に戻らなくてもいい。竜を連れて来て貰う事になっているから、お前の書庫の本を片っ端から運ばせる」 「ありがとうございますっ」 「ありがとう、助かる」 二人は勢いよくラファエルに頭を下げた。 連れ立って行く二人の後ろ姿を見送り、ラファエルは深く息を吐いた。 (団長に殺されるな……) 但し、ユリウスも、だ。

ともだちにシェアしよう!