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第60話

明確に現れている症状は『怠さ』と『冷え』の二つ。 最初は風邪に似た症状だった。 悪寒がする。躰が怠い。食欲が落ちる。少し休めば治るだろうと軽く考えていたが、なかなか怠さが抜けない。熱が無いのに頭が重い。 その症状を訴える者が徐々に増え始め、今では砦の半数に上り、床から起き上がれない者も出始めた。 食事を取らなくては体力も回復しない。だが、食欲が無い状態で無理矢理食事を取ると、胃が受け付けないのか嘔吐してしまう。嘔吐を繰り返したせいで体力が奪われ、水でさえ飲むのが億劫になってしまった者もいる。 「とにかく水分を取らなくては脱水症状になってしまいます。なので、柑橘系の薬草茶を冷まして与える事にします」 蜜柑や檸檬、林檎等の果実の皮を乾燥させた茶葉に清涼感のある薬草を混ぜて煮出す作業をブラッドは担った。ユリウスは対処療法を中心に、一人一人の症状を詳しく記していく事にした。 いつから症状を自覚したか。 何を食べたか。 何を飲んだか。 何処へ行ったか。 ユリウスが気になったのは、ブラッドが見た水に纏わりついている黒い霞だ。 竜人族にしか視えない何かがあるのかもしれない。もしかしたら、それが原因で食事や水を受け付けないとしたら……。 だが、そこで一つの疑問が上がる。 症状の出ている者と出ていない者。同じ物を飲食しているのだ。何が両者を分けているのか。 水……。 しかし、井戸から病気の元になりそうな物は見つからなかった。それでも用心の為、飲料水は煮沸していた。煮炊きする水は、結果、調理の段階で煮沸するようなものだ。 「水……、井戸……」 砦には三ヶ所、井戸がある。 厩舎と竜舎、厨房と宿舎の外だ。いずれも砦内なので、簡単に侵入出来る訳もなく、ましてや井戸に何かを投げ込むなど……。 ユリウスは頭を横に振った。 「これは私が考える事ではありません」 自分がすべき事は、病人の治療だ。 最初は宿舎で治療をしていたが、人数が増え始めた頃から講堂に寝台を運び入れ、そこに病人を纏める事にしたのだ。万が一、伝染性の病であった場合の隔離でもあった。 「あ、講堂の水を取り替えて貰わないと」 河の水を煮沸し終わった頃だ。 ユリウスは厨房に走った。 日々、大量の食事を用意する厨房は広く、竈もたくさんあった。 そこへ見慣れない少年が顔を出し、竈を一つ貸して欲しいと申し出た時、厨房は河から運び入れた水の煮沸に大わらわだった。殺気立っていたとも言う。 最年少らしい青年が、蒸し暑さに苛々しながら少年の話を聞いた。どうやら、医師の指示で薬草茶を大量に淹れに来たようだ。 医師の指示であれば仕方ない。竈を一つ空けてやった。少年は頬を紅潮させて感謝し、赤毛の頭を何度も下げた。そうすると、くせっ毛がふわふわと動き、仔犬が嬉しそうに尻尾を振っている様に見え、厨房全体を覆っていた殺気が和らいだ。 対応した青年は、少年には大振りの鍋を自ら竈に置いてやり、水を注いでやった。少年は恐縮し、更に何度も頭を下げた。 「俺、グスタフ。他に何か必要になったら、遠慮なく言ってくれ」 「はい、ありがとうございます。ぼくはブラッドと申します。お忙しいところ無理を聞いていただき、感謝します」 ブラッドは篭いっぱいの薬草茶を指示された分量を布袋に詰め、沸騰し始めた鍋に入れた。 ふわり、と柑橘系の香りが立ち、徐々にお湯が琥珀色に染まっていく。十分に効能が出るまで時間をかける。 額に玉のような汗をかきながら、ブラッドは薬草茶を酌で、持ち手のついた瓶に移した。煮出した茶葉は乾燥させる為にザルに広げた。乾燥させた出がらしを燻すと虫除けになる。 「何処に運ぶんだ? 手伝うよ」 グスタフが声をかけてくれ、まだ熱い瓶を持ってくれた。そこへユリウスが現れ、講堂の水を取り替えてくれるように頼んだ。 渋々グスタフは瓶をユリウスに渡し、自分は仲間達と煮沸した水を持って行く事になった。 講堂に入ると、ブラッドは思わず足を止めた。 ユリウスの指示の元、罹患していない騎士や見習い騎士らが病人の看病をし、清潔に保っている。最低限の人数で、交代で病人の躰を清拭し、敷布等を使いっ放しではなく洗濯をし、常に清潔な物を使用している。 それなのに、ブラッドには講堂内の空気が澱んでいるように感じられた。両側の大きな窓からは帳を通して光りが差している。……それなのに、暗い。 上半身を起こして自分で躰を拭いている者、寝汗をかきながら深く寝入っている者、介助無しには起き上がれない者。 ぼくは、この空気を知っている……。 神殿では、医者にかかれない貧しい者の最期を看取る施設もある。孤児院の年長の子供らが時々慰問に通った。その時に嗅いだ臭いだ。 死臭。 硬直した足を叱咤し、ブラッドはユリウスと一緒に病人の様子を見ながら、枕元の水差しの水を取り替えて行った。空の桶に入っていた水を捨てると、やはり、黒い靄が見えた。 厨房を何度か往復し、全ての水差しの中を取り替えた頃、陽は傾き、重苦しい空気も少し薄らいだように感じられた。 「そう言えば、何も食べてませんでしたね。お腹、空いたでしょう?」 騎士らは交代で食事を済ませていたようで、ブラッドとユリウスは何か残り物でも貰おうと厨房に向かった。 薄暗くなった外の風は湿気を帯び、冷たかった。 「あ、あの……」 ブラッドは躊躇いがちに口を開いた。 「どうしました?」 「竜を……見に行っても、良いでしょうか?」 グリューンが砦にいない事は承知していた。だが、他の竜の様子も知りたかった。 短い沈黙の後、ユリウスが頷いた。 「厨房に行く前に竜舎に寄ってみましょう」 「良いんですか?」 「私は人間専門の医師なので、竜の治療法は全くです。竜の生態も知りません。ブラッドの見たままでいいですから、あなたの意見が聞きたい」 「ぼくなんかの……」 ユリウスはゆっくり頭を横に振った。 「絆を結んだ竜騎士や、普段、世話をしている者は近すぎて冷静な見方が出来ない。竜に好かれているのに、客観的な見方が出来るあなたの感想を知りたいのです」 「先生……」 「ラファエルから聞いたのですが、ブラッドは竜に好かれながらも一定の距離を保っている。そして、竜を好きながらも甘えさせ過ぎず、べったり寄りかかったりしない、と」 竜は、愛玩動物ではない。 短い期間だったが、調教師頭のミュラーの仕事を見てきたブラッドは無意識に学んでいた。 甘やかせ、依存させる事は、絶対にしてはならない事。それは、竜騎士と竜の死に直結するからだ。 ブラッドは深く頷いた。 自分に何が出来るか分からない。だが、自分が見て、触れて感じた事をユリウスに伝えようと思った。 騒動は、その竜舎で起こった。 人手が不足していた為、港の城から調教師の応援が数人来ていた。その中の一人が、ブラッドの顔を見たとたん、ものも言わずに殴りかかったのだ。

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