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第61話
竜舎は厩舎とは反対の敷地にあった。
通常であれば、竜達の賑やかな声や翼を羽ばたかせる音が聞こえてくる筈なのだが、雑音すらしないのが異様だった。
「先生、水を取り替えた筈ではなかったのですか……?」
竜の飲み水用の水槽からは、黒い靄が立ち昇っていた。
「えっ? 換えていないのですか? 通達が届いてないのでしょうか?」
二人は竜舎へ足早に向かった。
人手不足のせいかもしれない。しかし、この不吉な靄の纏わりついている水を竜に飲ませる訳にはいかない。
竜舎の人間用の扉を開けると、数頭の竜が躰を丸めて寝ていた。動ける竜の殆どは出動しているので、空いている房が並んでいると建物が広く見える。
「誰かいないのですか?」
ユリウスが声をかけながら建物内に入った。ブラッドが続いて入ると、寝ていた竜達が一斉に首を上げた。行儀良く座り直し、ブラッドの方に首を向ける。
(やはり、竜人族に対し、竜は敬意を払うのでしょうか……?)
山ほどブラッドに質問したいのだが、ユリウスは己の好奇心を押さえるべく、自制心を総動員しなければならなかった。
ブラッドは柵越しに竜を注意深く観察した。
鱗が剥げたりはしていないが、全体的に埃っぽさが窺えた。鬣は艶が無く、鱗は天窓からの光を反射していない。爪は磨かれておらず、僅かだが欠けている部分もあった。
「世話をする人がいないのでしょうか……?」
ブラッドはユリウスを見上げた。
「竜騎士は伏せておりますし、世話をしていた見習い騎士も同様か看病に回っていますから」
しかし、確か、他から人手を借りるとラファエルが言っていたような……。
ユリウスが首を傾げ時、建物の外で数人の声が聞こえてきた。何やら、言い争っているような雰囲気だ。
「……だなんて…、簡単に言ってくれるよな!」
「誰が、わざわざ河から水を汲んで来るんだよ?! 俺らは、水汲みしに、わざわざこんな辺鄙な所に来たんじゃないぞ」
「申し訳ありません。でも、こちらも人手が足りないんです」
「何だ、その態度は!」
「俺らが見習いだからって、なめてんのかっ?!」
「違います。言い方が悪かったのなら、謝ります。本当に、看病で人手が足りないんです」
謝っているらしい少年の声に、ブラッドは聞き覚えがあった。入り口を振り返えると、言い争いながら竜舎に入って来た一団があった。薄茶色の髪の少年が、彼より少し年長らしい少年達に取り囲まれていた。
「カール?」
ブラッドが少年の名前を呼んだ。
名を呼ばれ、振り返った少年はブラッドとユリウスを見て、眼を大きく見開いた。
「ブラッド? ユリウス先生?」
見知った顔に、強張っていたカールの表情が和らいだ。反対に、カールを囲っていた少年らの顔は険しくなり、眉を逆立てた。
一人がカールを押し退け、ブラッドに迫ってきた。ブラッドはその場から動けなかった。少年の顔に。見覚えがあったからだ
辺境領へ来る前に、自分を取り囲んでいた調教師見習いの少年達だった。癒えた傷を思い出し、腹の底がしくしくと痛んだ。辺境に到着した時、寝込む原因の一つになったからだ。
目の前に立った少年がブラッドを上から睨めつけたかと思うと、無言で上から頬を殴り付けた。
咄嗟に動けなかったブラッドは、まともに拳を頬に受け、その小柄な躰は吹き飛んだ。
「ブラッドッ!」
「何をするんですか?!」
カールとユリウスは、空の房の柵に背中を強かに打ち付けて動けなくなったブラッドに駆け寄った。唇が裂けて血が溢れていた。弱々しく浅い息を繰り返し、カールの手を借りて躰を起した。
「こんな状況になったのは、こいつのせいだろっ!!」
他の少年達も、ブラッドを見下ろす顔は険しいく、侮蔑の色が濃かった。
「一体、何を言っているのですか」
ユリウスの問いに、殴った拳を擦りながら口を開いた。
「こいつが城から記章を持ち出して敵に渡したんだろ?!」
「は?」
「記章が無くなったって、城では大騒ぎになってるんだ。厳重に管理してた記章が全部持ち出されてるって、大事になってる。こいつが城を追い出された直後に分かったんだ」
「追い出された?」
カールの呟きに、ブラッドは躰を固くした。
「腹いせに、記章を持ち出して北方軍に渡して大金貰ったって、皆、言ってるっ」
「ち、ち…がっ……」
違うと言いたいが、裂けた唇が腫れ上がり、口が動かせない。
「喋らないで」
ユリウスが自身の服の袖で、溢れている血をそっと吸い取った。
「でたらめを言うな。ブラッドがそんな事する訳がない」
「はんっ! 新しい男に早くも取り入ったのかよ。侯爵様やら北方軍やら、お前の尻は軽くて大人気だな!」
忌々しげに吐き捨て、少年は更に言葉を続けた。
「港街でも、随分と人気だったらしいじゃないか。色街に売られる奴隷だったところを侯爵様に色目を使って城に連れてきて貰ったって、皆知ってたぞ。それでも、皆が優しくしてたのは侯爵様がいたからだ。それなのに敵と通じやがって、恩を仇で返すって、この事だよな!」
少年の言葉に、ブラッドは感情と頭がついていかなかった。所々、良く分からない部分があったが、自分が記章を持ち出した? それを北方軍に渡した? 腹いせに? 誰に対して?
「あ、有り得ないっ! ブラッドは、そんな奴じゃないっ」
カールが少年の前に立った。
「ブラッドは、竜に好かれてて、ちょっとむかつくけど、要領が悪くて苛つくけど、馬鹿正直で勇気のある、いい奴だっ」
「何だ。お前もしゃぶって貰ったのかよ?」
今度は、カールが言葉も発せず、少年を殴った。さすがに吹っ飛びはしなかったが、殴られるとは思っていなかった少年は激昂し、落ちていた長箒を掴んで構えた。
「へぇ? まだ騎士見習いだけど、そのぼくに武器を向けるんだ?」
見習いは剣を佩てはいないが、もとより素人に刃を向けるなどしない。素手で相対するつもりだ。
「カール、いけません……」
ユリウスが間に入ろうと立ち上がった時、竜舎に甲高い叫び声が響いた。それは、建物全体を震わせ、立っていた者は思わず耳を押さえて
しゃがんだ。
「竜が……っ」
誰かが怯えたように声を上げた。
いつの間に房から出たのか、竜が全頭、少年らの背後にひしめいていたのだ。元気無く丸まっていたというのに、竜から放たれた怒気は凄まじく、睨みつけている眼は、滅多に染まる事の無い深紅になっていた。
調教師見習いの少年らに最初に教えられるのが、
『滅多にないが、竜の眼が深紅なった時は命が無いと思え』
戦闘においても、深紅になるのは稀で、それは竜が『激怒』している状態…いわゆる『逆鱗に触れた』時なのだ。
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