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第65話

ローザリンデはさりげなくブラッドとウォーレンの間に入った。 「調教師殿は、此度の竜の不調をどう考えておられる?」 辺境伯に問われ、ウォーレンは恐縮して頭を下げた。 「原因不明の病が蔓延してしまい、忙しいあなた方に助力を乞う事態となったのは私の不徳の致すところです。それで、専門家の意見を参考に、これからの竜の世話をしていきたいと思うております」 「は…、その、じっくり竜を見てみないと詳しい事は何とも言えませんが……」 「そうですな。取り敢えず、負傷した竜を手当てして貰いたいのだが」 ウォーレンは更に頭を下げ、見習いを引き連れて竜の手当てに向かった。それを見送り、ローザリンデはラファエルに向き直った。ブラッドは少しの間、所在無げに立っていたが、何かを思いついたのか踵を返し、宿舎の方へ走り去った。 「あの子供らは『見ていた』か?」 ローザリンデは小さくなるブラッドの背中を見つめながら訊いた。ローザリンデの問いを正確に悟り、ラファエルもブラッドの背中を見送りながら頷いた。 「見習いの子供らは、ひと塊になって踞っており、ブラッドと竜のやり取りは見ておりません」 ローザリンデはラファエルに向き直った。 「箝口令をしけ。末端まで徹底的に。決して外に洩らしてはならぬ。竜の暴走にブラッドは一切関わっていない」 竜と対話らしきものをしていたように見えた事によって、竜騎士らはブラッドを『竜の愛し子』と判断しただろう。だが、同時に声高に触れ歩いてはならない事も。 古来より竜騎士の間では『竜の愛し子』は徹底的に秘匿し、庇護の対象と伝わっている。忠誠を誓った国より、主君たる国王より、その存在は重い。 「本当は、この場に居なかった事にしたいが、難しいだろうな……」 「カールとユリウスだけであれば可能ですが、見習いの子供らには秘匿する意味は分からないでしょう。多分、あの調教師殿にも」 頭が固そうで融通もきかなそうだ。今までの経験則の輪から決してはみ出ない、出さない、相手にも出させないだろう。『愛し子』の存在も鼻で笑って否定するのが目に見えている。 だが、その意固地さはブラッドを傷つける。 竜騎士である彼らにとって、それは絶対に赦されない、赦してはならない事なのだ。 「人手が足りないのは痛いが、竜の症状が好転しないようであれば早々に城にお帰り願おう」 「宜しいので?」 「元々、世話のみを頼んだのだ。余計な口出しは無用。せいぜい扱き使ってやれ」 ローザリンデは意地悪く口許を歪ませた。ユリウスはくすりと笑って頷いた。ローザリンデは怒っていたのだ。 竜に近づく事を禁じられたブラッドは、ローザリンデとウォーレンとの会話を聞き流していた。だが、『症状』と『手当て』という単語に、ふと、反応した。 彼らは何と言っていた? 苦しい、助けて欲しい、と。 ブラッドは顔を上げて竜達を見た。 皆、全ての生気を吸い出されたように力無く伏し、呼吸も弱々しい。今にも風の一部になって消えてしまいそうだ。 助けてあげたい。 でも、どうやって? 竜の傍には行けない。世話さえもさせて貰えない。自分に出来る事は、せいぜい水や食料を運んだり、躰を拭いたり爪を磨いたりする程度でしかないのだが。 水……。 『呪詛』……。 竜が訴えた『呪詛』には原因がある筈。 ブラッドが育った孤児院は神殿の敷地内にあり、神官見習いが主に孤児の世話をしていた。朝夕の太陽神への祈りと勉強は神官が見てくれた。読み書き計算から専門的な神秘学までだ。 その中に『呪詛』に関わる講義があったのを思い出した。 『呪詛』には二種類あった。 戦の時に相手国の弱体を呪う『呪詛』と、憎い個人の不幸を呪う『呪詛』。前者は自国の勝利を戦の女神に願い、冥府の王に相手国の不幸を呪う。後者は冥府の王の妻であり、死と疫病を司る黒の女神に、対価と引き換えに相手の不幸を願う。 だが、神殿は愛する者の幸福や戦勝祈願は受け付けても、呪いなどは拒絶している。神殿は聖なる白の空間を汚されるのを好まないからだ。 では、呪いたい相手が出来た時どうするか。 『呪術師』 憎い相手の身につけていた物……服や靴。一番効果的なのは相手の髪や爪、血などは特に効果があるとされる物を軸に呪うのだ。 でも、何か違う……。 ブラッドは足早に歩きながら神官の講義を反芻した。 『呪詛』は術者に相当の魔力と精神力を要求する。 呪う相手の精神力が勝っていた場合、『呪詛』はかけた側に何倍もの呪いとなって返ってくる。それは、呪術師だけでなく依頼した者も同時に返しを受ける。体調が悪くなったり運が悪くなるのは軽い方で、最悪は気が触れたり苦しみ抜いて死ぬ事もある。 それらを返される可能性の高い、魔力保有量の多い竜に『呪詛』をかけたりするだろうか? あの水から立ち上っていた黒い靄の正体が『呪詛』だとしたら……?。 厨房で訊いた砦の井戸は三ヶ所。 厨房、宿舎、厩舎の敷地内だ。 ブラッドは一番近い厨房の井戸に向かった。 今、砦の井戸は使用を禁じており、木の板で封をしていた。風で飛ばされないように板の上には重石が乗せられてある。 ふぅっと息を吐いて、ブラッドは板に手をかけた。板の凍るような冷たさに、ブラッドの躰全身が震えた。 重石ごと持ち上げるのは無理なので、ブラッドは板を力一杯押してずらした。鈍い音を立てて指一本ほどの隙間が開いた。 その途端、隙間から真っ黒いものが勢いよく吹き出した。

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