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第66話
井戸と蓋の隙間から溢れ出した黒い靄は、真夏の影よりも濃く、水のように流れ落ちた方はゆっくりと地面を這い出した。それは、ゆらゆらと揺れ動き、ブラッドには細長い無数の手の束が、何かを掴もうと蠢いているように見えた。
ブラッドは息を飲んで、そっと黒い靄に手を伸ばしてみた。黒い靄はブラッドの手に気がついたのか、ゆらゆらと揺れながら這って近づいて来た。
黒い靄が指先に触れた途端、ブラッドは声を上げて手を引いた。あまりの冷たさと、気力を根こそぎ持って行かれそうな感覚に怖気立ったからだ。
このままでは井戸から黒い靄が無限に溢れ出してきそうな気がし、ブラッドはずらした蓋を元に戻した。それでも黒い靄は井戸と蓋の間から這い出ようとしているように感じられた。
ブラッドは冷たい汗をかきながら、残りの井戸も確認した。
全部の井戸から黒い靄が溢れ出している…。
茜に染まる夕刻の空を見上げ、ブラッドは途方にくれた。
誰に相談すれば良いのか分からない。砦は、竜の暴走後の後始末と治療で大わらわだ。しかも、病で臥していた騎士らが無理をして起きた事で症状が悪化していた。
あの井戸の水を飲んでいたから……?
気力どころか、生命力そのものを黒い靄に奪われたのかもしれない。昼に河から汲んできた水を使用して淹れた薬草茶のお陰か、顔色が良くなってきていたのに。
誰かが、この砦に『呪詛』をかけている。確証は無いけど、伯爵様に言ってみようか……。
絞り出すように訴えてきた竜の苦し気な声を思い出すと胸の奥が抉られる。しかし、調教師でも竜騎士でもない自分が竜の声を聞いたなど言っても、一笑に付されるだけだ。いや、何と不遜な事を言い出すのかと呆れられるか、激怒されるか……。
でも……。
忙しく指示を出し歩くローザリンデを見かけながら、ブラッドは薬草茶を淹れる為に厨房に向かった。
一晩中、ブラッドとユリウスは講堂で病人の世話をし、二人が眠れたのは明け方前のほんの一時だけだった。徹夜の看病に慣れていたユリウスは、何度かブラッドを宿舎で休ませようとしたが、やんわりと断られた。
自分が原因で騒動が起きたと、責任を感じているようだった。ユリウスは、何度もブラッドのせいではないと言いきかせたが、憂いを含んだ微笑で流された。
伝説となっていた竜の暴走を目の前に、ユリウスは自分の研究が如何に軽い思いつきで始めた事かを思い知らされた。幼い頃に読んだ童話の中での壮大な滅びの物語が、もう少しで現実になるところだったのだ。今頃になって冷や汗が流れ、脚が震えた。
朝食の時間となり、二人は介助が必要な病人にそれぞれついた。順番にスープと薬湯を与え終わる頃には陽は高々と昇り、窓を開けると爽やかな温もりを含んだ風が室内を吹き抜けた。
そこへ、ジークムントが配膳台に山ほど料理を乗せて入って来た。
「よう、ブラッド、ユリウス先生」
「ジークさん?!」
「朝飯、まだなんだろ? 俺もなんだ。一緒に食おうぜ」
配膳台の周りに椅子を寄せ、ジークムントは二人を手招きした。
「良いのですか?」
ユリウスの問いにジークムントは大振りの杯に水を注いで頷いた。
「団長の許可は得ていますから大丈夫です。 あ、伝書鳩からの連絡で、先生の書庫からありったけの書籍を持って来ました」
「それはありがとうございます。でも、大変じゃなかったですか?」
ジークムントは焙った鶏肉と野菜を挟んだパンをブラッドの前に置いた。食欲が無く、お茶だけで済まそうとしていたのを気づかれてしまったようだ。それをブラッドが手に取っただけでなく、小さな一口だが、噛りついて咀嚼するまでジークムントはじっと見つめた。
「…俺のシルヴァンだけじゃ全部は無理だったので、アルベルトの竜にも積んで来ました」
「まさか、一緒に来たんですか?!」
ジークムントは肩を竦めて苦笑した。
「あいつ、抜糸が済んだら動いた方が回復が早いからって言い出してきかなかったんですよ。案の定、砦についたら息切れしたんで宿舎に寝かせてます」
「何て無茶を……。熱は?」
「今のところ、無いです。寝込んでたんで、筋肉が萎えてただけです。大丈夫です。俺ら竜騎士は普段から鍛えてますから、動いてたら、直ぐに元に戻ります」
「後で、ぼくが薬湯を持って行きます。先生、処方をお願いします」
ブラッドが覚えているアルベルトは力無く横たわる、血の気の無い青白い顔だ。レオンの血で体力の底上げをしたとはいえ、食事を取るのも億劫そうだった。
「そうですね……、体力の回復が中心なので薬草茶と同じ処方で良いです」
「分かりました」
パンを半分まで食べたブラッドの腹は満腹状態となった。元々、少食な上に、渡されたパンが大き過ぎた。
ユリウスは難なく食べ終わるところで、ジークムントはブラッドの倍以上を既に食べ終えて水を飲んでいた。ちらりとジークムントを見ると、もっと食べろと無言の圧力をかけられた、ような気がした。
諦めて食べようとパンを持ち上げた手に、白い滑らかな手が重ねられた。驚いて見上げると、ローザリンデが苦笑していた。彼女の後ろには副団長のラファエルが同じ表情をしていた。
「成長期にたくさん食べる事は必要だが、無理強いはいかんな」
ブラッドの手からパンを取り上げ、ローザリンデはそのまま自分の口に運んだ。食べかけを貴族に食べさせてしまったブラッドは蒼白になって慌てたが、他の三人は表情一つ変えなかった。
「ユリウス先生、書籍は宿舎の食堂に運んであります。荷物持ちにはジークを使って下さい」
指についた肉汁を嘗めて、ローザリンデはジークムントを反対の手で指差した。
「存分に使って下さい。また、ブラッドと一緒にいれて嬉しいし」
「あ、あの、ユリウス先生、ご本をお借りしても良いですか?」
ブラッドが躊躇いがちに訊ねた。歳時記などに『呪詛』解除の手がかりがあるかもしれない。
「良いですが…、ほぼ医学の専門書で文語で書かれており、中には古代語のもありますが」
ぱっと明るい表情でブラッドは、
「それなら大丈夫です。神殿の図書室の本の殆どが古代語ですし、文語は慣れてますから読みやすいです。『薬学大全集』、『実践薬草百選』、『医薬百選』は神官様の指導で読まされました」
四人は眼を大きく見開いてブラッドを見た。
どれも古代語と文語が混じった難解な専門書である。
「ブラッド、君は城に勤める前は港で働いていたと聞いたが……」
ラファエルが訊いた。荷揚げなどの肉体労働をしていた風には見えない。
「はい。港で扱われる輸出入のすべての荷の管理を任されてました」
「すべての…荷の管理……?」
「はい。商会ごとにばらばらに荷が動いてますと、密輸や脱税が横行してしまいます。現に数年前までは管理が行き届いておらず、密輸と脱税が横行し、堂々と人身売買も行われていたと聞いてます。侯爵様が城代として来られてからは禁止され、罰則も厳しくなったと」
それでも、時々、他国の人身売買を生業としている奴隷商人が入港する。その時は下船を禁じ、早々に出港させる。水と食料が必要な場合いは兵士の監視の元、必要最低限、運び入れる。
ブラッドが巻き込まれたのは、そんな奴隷船から逃げ出した奴隷を捕まえられず、たまたま見目の良い彼を数合わせにされただけなのだ。
ブラッドは知らないが、彼が助け出された後、侯爵の指示で奴隷船は徹底的に捜査され、違法性が明らかとなり、商人は捕縛された。
「ぼくの主な仕事は、荷の出入りの数の矛盾が無く、商会からあげられた書類と内容と数のすり合わせでした」
それは、もっと経験の積んだ老練者が担う仕事内容ではないのか……?
言葉に出さなかったが、四人は同時に思った。
「君はどこの神殿にいたんだ?」
「緑の丘神殿です」
「もしや、クレーメンス老神官がおられる?」
「あ、おじいちゃん神官様です。本の指南をしてくれました。ご存知なんですか?」
「そなたは、賢者クレーメンス殿の弟子なのか?!」
ローザリンデの脳裏に、したり顔のオイレンブルク侯爵の秀麗な顔が浮かんだ。
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