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第67話

時間は少し遡る。 ジークムントにブラッドを頼むと言ったものの、レオンは結界の張られた森を見ておこうと高台に登った。山の麓をなめるように広がる濃い緑の森が広がっている。 成る程、とレオンは呟いた。 意識して森を『視る』と、淡い虹色の光が全体を覆っているのが分かる。護りより、惑わせの魔力が強い。決められた街道を外れると入り口に戻る仕組みだ。 ずいぶん古い仕様だな。精霊との契約か…。 気をブラッドに向けてみたが、僅かな気配すら感じられない。先ほどまで自分の腕の中にあった温もりをが感じられず、胸の奥が絞られる不快感に、レオンは眉間に皺を寄せた。 苛立ちを嘆息を吐く事で押さえ、レオンは目的地に向けて駆け出した。 晩餐を終え、自室で優雅に……ではなく、苦虫を潰したような顔でフェリックスは温くなったお茶を飲み干した。 茶器を置いた机の上には書類が山積みになっていた。その山に、持っていた書類を放り出し、フェリックスは目頭を押さえて長椅子に横たわった。柔らかいクッションに頭を預け、深い溜め息を吐いた。 「夜這いには、ちょっと時間が早いんじゃないかな?」 フェリックスの声に呼応するように、露台へ続く窓が開かれた。 「お疲れのようだな」 苦笑しながらレオンが入って来た。 「鍵も掛けず、無用心ではないのか?」 「そろそろ訪れる頃かと思って、わざと掛けずにいたんだよ」 気怠げに身を起こし、フェリックスはレオンに向かいの長椅子を勧めた。それに座りながらレオンは山積みの書類を見た。 「部外者がいるのに、いいのか?」 「特に秘密にしなければならない内容じゃないからね。王弟殿下の騎士団の再編成と身辺調査の結果だ」 十分、機密情報じゃないか……。 「それで、もう、ブラッドを美味しく頂いたのかな?」 「……」 「え? まさか、まだ、手を出していないなんて、何をやってるの? ぐすぐすしていたら、辺境伯に持って行かれてしまうよ?」 「……本題に入りたいのだが…」 「はいはい。どうぞ」 憮然としたレオンとは反対に、満面の笑みを浮かべてフェリックスは促した。煮詰まっていたところに、ちょうど良い話し相手が現れたので機嫌が上向いたらしい。 「…国境付近の森の事だが」 口許に笑みを浮かべたまま、フェリックスの先程までの愉しげな表情が消えた。 「気がつかれましたか」 口調まで変化した。眼には鋭い光があった。 「ずいぶんと古い契約のようだが」 「ええ。代々の辺境伯のみが精霊と交わしている『血の盟約』です」 あっさりと応え、フェリックスは居ずまいを正した。 「俺などに簡単に教えて良いのか?」 フェリックスは肩を竦めた。 「我々が黙っていても、あなた方、竜人族には無駄でしょう」 竜人族は魔力が関わるあらゆる事象を見抜く竜眼を持っている。ブラッドを追って森の前に立てば、張られている結界とその性質 には直ぐ気づく。 そして、魔力保有量が上の竜人族に結界の類いは無効な事も。 「あの森がある限り、北からの侵攻は防がれるな」 「小競合いはあるんですよ。森の外れの国境付近にあるいくつかの村が、何度も襲われているんです。その度に辺境伯に出張って頂いてるんですが、なかなか、しつこいんです」 北方の国からしてみれば、森から向こうには大穀倉地帯が広がっている。厳しい風土で穀物が育ちにくい国から見たら、大飢饉でも無ければ飢えることのない、羨ましい限りの大国なのだ。 山の稜線と河で国境線を引いているが、辺境領を足掛かりに大々的に侵攻を企んでいるようだ。 とかろが……。 「王都には危機感が全く無いんです」 何度も書状を送り、辺境警備の強化を訴えているのだが、王都は『血の盟約』を理由に兵も物資も増やす気が無い。結界によって護られているとはいえ、襲われている国境の村々にその都度兵を出している辺境の砦は気の休まる暇が無い。 「その上、相手を刺激して大事にしては大変だから、威圧するような竜を減らせと言ってくる始末」 「は?」 フェリックスは額に手を当てて頭を横に振った。 「戦力を誇示するから相手が危機感を覚え、逆に手を出させるの方が問題なのだそうだ……」 頭痛がするよ、とフェリックスは机の上の書類を指差した。 「国王直轄地で大きな港があるここは、喉から手が出る程欲されているというに、貴族の甘やかされ子弟で編成された王弟殿下の騎士団が護る事に決定されたのだが……」 フェリックスが長を勤めるブリューテ騎士団も貴族の子弟で編成されている。王弟の騎士団と違うのは、貴族の次男、三男が殆どで、フェリックスによって厳しく鍛えられている事だ。 大きな戦から遠のいて久しい現在、次男や三男は長子の予備か、有力な家との繋りの為の駒扱いが一般的だ。家に居場所が無く不貞腐れて入団する者が殆どで、騎士団で名を挙げて一家を建ててやろうという気概のある者は少ない。 入団直後に、貴族だという一点のみに縋り甘えた考えは、フェリックスによって完膚無きまでに叩き潰される。地べたを這いつくばらせ、泥水を啜らせ、お前らの自尊心など蟻以下だと思い知らせる。 そこから這い上がらせ、心身ともに鍛え上げられたブリューテ騎士団は他の貴族で編成された、どの騎士団よりも強靭だ。 しかし、王弟騎士団は貴族の長子が多く占められており、汗を垂らして戦うのは従者の仕事と思っている節がある。 「その騎士団を、王弟殿下共々鍛え直して欲しいとの国王からの要望の結果の山です」 王弟と共に到着して僅か三日で起こした揉め事の山なのだ。 やれ扱いが軽い、食事が質素だ、部屋が狭い、使用人の態度が悪い等々。擦れ違った使用人の下げる頭が高いと殴りつけたり、行儀見習いで城に上がっている商家の娘を部屋に連れ込もうとしたりと散々である。 「本当だったら、今頃はブラッドを伴って領地でのんびりしている筈だったのに……」 口調が元に戻った。 「あの子を見初めたのは私の方が早かったのに、ぽっと出のあなたに持って行かれる事になろうとはね」 「港でブラッドの評判を聞いて来た」 「……」 「ブラッドの後任も頑張ってくれているが、ブラット程の有能な人物はなかなかおらんようだと、商会の頭が嘆いていた」 「私が推薦したのは、王都でも指折りの商会の番頭をしていた人物なんだけどねぇ」 レオンは行儀悪く脚を組み、胸を反らして背凭れに両肘を乗せた。 「侯爵、あんた、知っていただろう?」 何を、と問わず、フェリックスは口の両端を吊り上げた。 「街でのブラットの評判は、すこぶる良かった。誰にでも隔たり無く接し、困っていると手を貸してくれたり、学問所に行けない子供達に文字や算術を教えてくれたりと感謝していた」 「何より可愛いしねぇ。でも、神殿の孤児院出身の子達は、みんなブラットと同じくらいの学力だよ?」 「学力と能力は比例しない。あの孤児院出身者は有能で知られているようだったが『ブラット程』の有能な人物はいない、という事だった」 「街の住人全部が善人じゃない。人の好いブラットを利用しようもする悪人もいる。あの子は警戒心が薄いから城で保護して正解だったよ」 「……その城での評価が街と真逆なのは、どうしてだ?」 そうかな、と嘯かれたが、レオンは怒りもせず、言葉を続けた。 「ブラットを可愛がっていたのは、ほんの一部で、後は奴隷上がりの小生意気な小僧、もしくは元男娼と思い込んでいる者もいた。ブラットは、かなり辛い目に遭っていた筈だ」 背凭れから腕を外し、レオンは若干前のめりになって、声を低くした。 「知ってて放置していただろう」 フェリックスの笑みが仄暗いものになった。 「だって、良い思い出が無い方が後腐れ無くここから連れて行けるからさ。下手に情が残ってしまったら、なかなか城から出られないかもしれない。竜を気に入ってたけど、私自身竜騎士で領地に竜もいるしね」 「嫌がらせだけじゃなく、暴力も振るわれていのも知ってたな」 「まさか、不埒な者が出るとは考えが至らなかったのは、私の不徳と致すところ。しかし、公子も直ぐに気がついていたでしょう」 「……」 「伝え聞く竜人族の気質は苛烈。愛しい者を傷つけられて黙っているなど、竜人族らしくない。けれど、あなたも黙認した。それは、私同様、後腐れなく城からブラットを連れ出す事が出来ると考えたからだ」 あなたと私は同じ。 権力側に身を置く者の性で、手に入れたいと思ったら手段は選ばない。相手が困るとは微塵も考えない。手に入れてから、宥めすかせば良い。囲い込んでしまえば時間はいくらでもある……。 そのような考えをブラットに爪の先程も悟らせない自身が二人にはあった。

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