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第68話

細い月が中天に差し掛かっていた。 時折、レオンは辺境領に気を向けてみるが、泥に釘を打つように手応えがない。 ガラスの触れ合う音に振り返ると、いつの間に用意したのか、侯爵の手に葡萄酒の瓶があり、二つの杯に赤い液を注いでいた。 「どこから……」 執務机の下を指差して片目を瞑った。 「飲んでないと、やってられないのでね」 内緒だよ、と片目を瞑る。机の下に隠してあったらしい。 書類の山を見て、レオンは無言で杯を受け取った。侯爵の持ち物の葡萄酒とあって、芳醇な香りが漂う逸品だ。一口含む。混ぜ物の入っていない、すっきりとするが、濃厚な葡萄酒だ。 「あの森の『血の盟約』は、現辺境伯で終了なのだそうだよ」 明日も天気だね、と言うような平坦な口調だった。 「そうか」 「驚かないねぇ。…つまらない。竜人族は契約の内容も視えているのかなぁ」 「それはないが……、国王直轄地に王弟とその騎士団が赴任して来て、更に百戦錬磨の侯爵を教育係とした一連の流れからの推測だ」 「……」 フェリックスは杯の中身を一息に飲み干した。酒に強いのか、顔色ひとつ変えない。 「北方が進軍して来ているのに、正規軍の増強が無いのは、国王と腹心以外の貴族の間に危機感が全く無いからだろう? 契約が切れる事も知らないのか?」 「昨年の暮れに行われた御前会議で、辺境伯がはっきり契約は自分の代で切れると報告したんだよ。それを彼らは助成金欲しさの戯言と一蹴したんだ」 レオンは額に手を当てた。 森に結界がある限り、他国からの侵略は有り得ない。それが今までの事実で、これからも継続されるのが彼らの常識なのだ。 人員を増やせば、それなりに金銭が発生する。人の手を頼らずとも防御の役割を果たす『血の盟約』があるのに、わざわざ予算を割く必要は無いのではないか。 それならば、結界も無く竜騎士団でもない、普通の兵しかいない我が領地を守る為の助成金を増やして貰いたい。備蓄や傭兵を雇うにも金がかかるじゃないか……。 その様な考えが王弟騎士団にも蔓延していたのだ。更に、豊かな港街という事で彼らの頭の中は、任期中をいかに楽に怠惰で過ごすかしかない。 平和ボケという言葉が頭に浮かんだ。 その甘えた根性をどう叩き直すか。 フェリックスの頭の中には幾通りもの特訓内容が浮かんでいた。弟のジークムント曰く、黒の侯爵(腹黒)から氷の侯爵となった兄を止められる者はいない。兄の通った後には屍の山が出来る、と。 「ところで、昼に辺境から気になる報告が上がっていてね……」 雰囲気をがらりと変えて、フェリックスは済まなさそうにレオンを見た。レオンは訝しげに眉を顰め、続きを無言で促した。 「国境の砦で、何やら原因不明の病が蔓延しているようなのだよ……」 レオンは物も言わず立ち上がってフェリックスを睨めつけ、音も無く露台に出た。レオンを追うように露台に出たフェリックスは、細い月影を遮るように飛ぶ大型の竜を見送った。 薬湯を淹れた茶器を乗せた盆を持って、ブラッドはアルベルトが寝ている部屋の扉を軽く叩いた。中から応えがあり、静かに扉を開くとアルベルトが寝台で躰をを起こす途中だった。 「アルベルト様、大丈夫なのですか?」 慌てて側の椅子に茶器を置き、ブラッドはアルベルトの介助をした。 「情けないところを見られてしまったな…」 ブラットから茶器を受け取り、アルベルトは短く嘆息を吐いた。ブラットを椅子に座るよう促し、程よく温められた薬湯を啜った。 「…苦くない……」 診療所で飲んだ薬湯は、思わず眉間に皺を寄せてしまう程苦かった。 「診療所で煎じた薬湯は薬種が多くて、味は二の次なんだそうです。これは薬湯というより、薬草茶と言った方が正解かな。甘味とすっきりした風味の薬草を加えてあるので、口当たりが良いかと」 食欲の無い病人用にユリウスが処方した滋養たっぷりの薬湯に、ブラッドが薬効を損ねないのを確認して加えたのだ。 「アルベルト様、飲み終えられましたら、傷の消毒と包帯を取り替えますね」 「ありがとう。……その、ブラッド。俺に“様”はいらないから」 「え、でも、騎士様ですし……」 「ジークの事は“ジークさん”って呼んでるよね」 「あ、はい。その、恐れ多い事ですが、そう呼んでくれと……」 「俺の事も“アル”と呼んでくれないか? 俺なんて貴族でもないぞ?」 頼むよ、とアルベルトはブラッドの頭に手を乗せた。自分とは違うくせっ毛の感触に、思わず微笑んだ。仔猫を撫でているようだ。 くすぐったそうに笑みを浮かべて肩を竦めるブラットを見て、弟がいたら、こんな感じなのかとアルベルトは思った。年の離れた二人の兄に可愛がられたが、それなりに意地悪もされた。 幼い頃は向きになって兄達に対抗したが、如何せん、年齢と体格差は大きな壁だった。今では細身だが身長は兄達に追いつき、剣技は追い越した。 「あーっ! 何、ブラッドに手を出してんだよっ」 騒々しくジークムントが入って来た。手には包帯とおぼしい白い布と水差し、そして薬缶を入れた盥を抱えていた。 部屋の隅に設えてある箪笥の上に持っていた物を置き、大股で近づくと、ブラッドの頭からアルベルトの手を退けた。 「お前は、ダメ!」 アルベルトは眼と口を丸くし、ジークムントを見た。いつもの、ふざけた雰囲気は無い。どうやら、真剣らしい。 「お、お前だって、ブラッドに構ってるじゃないか」 「俺はいいけど、お前はダメ」 「何でだよ?!」 二人の間に挟まれ、ブラッドは躰を小さくするしかなかった。 「あの……、そろそろ、包帯を取り替えたいのですが…」 きりの良さそうなところでブラッドは二人の間に入った。二人は、ハッとし、気まずそうに口を閉じた。 茶器を箪笥の上に片し、盥を椅子に置いて水差しから水を注いだ。黒い靄は見えない。煮沸した河の水のようで、ブラッドは顔に出さないが、ほっとした。 服を脱ごうとしたアルベルトの手が止まった。ブラッドは傷が痛むのだろうと思い、手伝おうと手を伸ばした。 アルベルトは、それを制し、傍らに立っていたジークムントを見上げた。 「お前は出ていろ」 「…は?」 「だから、お前は部屋から出ていろって言ってる」 「何でだよ。俺も手伝うよ」 「嫌だ」 アルベルトはジークムントの躰を押して、扉を指差した。醜い傷痕を見られたくなかった。 「出ていてくれ」 「傷の具合も確かめたいし、俺も手伝う……」 「だから、それが嫌だって言ってるんだ!」 「アル……?」 アルベルトは下唇を噛んでジークムントを睨んだ。ジークムントは戸惑った表情でアルベルトを見返した。扉を指差す手が、僅かに震えている。 「ジークさん、手当てはぼく一人でも大丈夫です。ちょっとの間だけ、部屋から出ていて貰えませんか?」 「ブラッド……、その、俺は……」 「ええ、分かってます」 ブラッドは大きく頷いた。 「ジークさんはアルさんが心配なんですよね? ぼくの手当てでは心許ないと思いますが、神殿の治療院で怪我の手当てをしていた事があるので、手順は心得てます 」 ブラッドを信頼していない訳ではないが、わざと自分のせいにして、ジークムントとアルベルトの間の気まずさを軽減してくれようとしている。そこまでされて、騎士が駄々を捏ねるのも格好が悪い。 アルベルトに何が言おうとしたが、結局、ジークムントはブラッドの頭をひと撫でして部屋を出た。 ジークムントを見送り、アルベルトに向き直ると、彼は眉尻を下げてばつの悪そうな表情でブラッドを見た。 「すまない……、その……」 「分かってます。治療院では、傷痕を人に見られるのを嫌う方もたくさんおられました。それこそ、男女も年齢も関係なく」 「騎士が情けないと思うが……」 多分、ジークムント以外の人間に見られるのは平気かもしれない。だが、ジークムントにだけは、醜く引きつれた傷痕を見られたくない。 「いいえ。中には人の血どころか、自分の血を見て引っくり返る方もおられましたよ」 「自分の、血で……?」 「はい。街の警邏隊の方で、アルさんの倍くらいある大柄の方でした」 くすりと笑って、 「その方、剣の手入れの最中に指先を切ったと言って、手を布でぐるぐる巻きにして治療院に来たんです。手当ての為に布を取るの大変でした」 アルベルトはその様を想像して笑った。表情が和らぎ、躰の強張りがほどけた。 ブラッドはさりげなく服を脱がし、包帯を取って、アルベルトを寝台に俯せにさせた。背中いっぱいに斜めに走る、赤黒く盛り上がった刃の痕が痛々しい。 濡らした布で、優しく傷痕にこびりついた膏薬を拭う。所々捲れている古い皮膚を丁寧に剥がし、新しく膏薬を塗る。 レオンの血のお陰か、アルベルトの怪我の治りは通常より早く、傷痕の塞がりも思っていたよりきれいだ。剥がした皮膚の下には新しい皮膚が出来ていた。 アルベルトとは違う意味で、ブラッドも傷痕をジークムントに見せられないと思った。騎士の彼が見たら、通常の治りより早いのが知られてしまう。 それが良い事なのか悪い事なのか、ブラッドには分からなかったからだ。

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