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第69話
(心地好い……)
俯せて、アルベルトはブラッドの手当てを受けていた。広範囲に渡る刃の傷痕に優しく膏薬を塗るブラッドの手が気持ち良い。
冷たくもなく、熱すぎず、ちょうど良いブラッドの掌で温められ、柔らかくなった膏薬が傷に染み込んでくるようだ。布が擦れたり、背中に何か当たると、後頭部を殴られたような痛みが常にあった。それなのに、ブラッドに触れられた所から、じくじくと疼くような痛みが消えて温もりが広がっていく。
このままブラッドに撫でられているだけで傷が癒えてしまいそうだ。
「痛くありませんか?」
「あ、ああ。…大丈夫。心地好いよ」
「それは良かったです。化膿も癒着もなくて、きれいにくっついてますよ。これなら、思っていたより早く完治しそうです」
けれど、醜くく痕は残るんだろうな、とアルベルトは仕方なく思った。
「なるべく傷痕を陽に当てたりしない方が、染みになったり引きつったりせず、早く元の肌の色に戻りますよ」
薬缶に蓋をしながらブラッドが言った。
「その、騎士なのに、傷痕を気にするなんて、女々しいよな……」
いいえ、とブラッドは頭を横に振った。
「傷痕を強さの象徴とするのは、気の小さい証拠なんだそうですよ?」
「?」
「神官様の中には、騎士や傭兵だった方もいらして、現役を退いてから、傷痕を見せびらかしていた過去を悔いてました。今思い出しても赤面して、全身の毛穴から汗が出まくる程恥ずかしい、と」
油紙を膏薬を塗った傷痕の上に張り、ブラッドは身を起こしたアルベルトに手早く包帯を巻いた。
「それに、本当に、なるべく痕を残さないで治った方が良いんです。引きつれると動きに支障が出ますから。特に騎士様方は剣を振るうのに、以前と違って違和感があると大変だとか」
確かに、剣を振るう可動域が狭まるのは命の遣り取りでは危険だ。叩き込まれた無意識の動きとの齟齬は危機に直結する。
「すぐに領地に戻られるのですか?」
「いや。暫くは砦勤務だ。副団長の隊に編成される予定だ」
「では、その間の傷の処置はぼくが担当しますね。何か不具合があったら、遠慮なく仰ってください」
ジークムントと同い年とは思えない可愛らしさに、若干、劣等感を刺激されるが、ブラッドの心地好い手で手当てをして貰えるのは、正直魅力的だ。
「頼むよ」
アルベルトが言うと、ブラッドはほんわりと微笑んだ。
ブラッドはブラッドで、早く治るよう想いを込めて処置をしていた。本人は知らないが『竜の愛し子』と竜騎士の相性はとても良い。気の流れが似ているからだ。
ブラッドの想いが癒しの気となってアルベルトに流れ、レオンの血との相乗効果によって治癒力が上がってるのだ。ブラッドが…『竜の愛し子』が側にいるだけで、竜騎士の気が無駄なく流れ、体調はすこぶる快適になる。
「早く治ると良いですね」
そう言いながら背中を撫でるだけで、アルベルトの治癒力は上がっていく。
「なぁー、まだ、入ったらだめなのかよー?」
そろそろ待ちくたびれたジークムントが、焦れて扉越しに声を上げた。
「症状が回復したのですか?!」
砦の執務室で、ラファエルとユリウスが同時に声を上げた。
ローザリンデは頷いて、
「まだグリューン以外は飛べないが、皆の顔色や動作に力が戻りつつあるようだが……」
「それは、もしや……」
ラファエルは呟き、隣のユリウスを見た。ユリウスもラファエルを見返していた。
「何だ、二人とも? 何か心当たりがあるのか?」
実は、とラファエルはブラッドが砦に着いてからの一連の出来事を話した。それは、竜の暴走にも繋がる事だった。
「井戸の水が?」
「はい。ブラッドが言うには、井戸の水から黒い煙のような物が出ているように視える、と。それが原因不明の体調不良に関わっているのではないかと」
ユリウスは、その時のブラッドの強張った表情と顔色を思い出した。ブラッドが『竜の愛し子』でなければ一笑に付していただろう。人の眼には視えない、何か不吉なものを感じ取っていたように思えた。
「団長は、何か感じませんか?」
ラファエルに訊ねられ、ローザリンデは砦の上空で感じた、全身の鳥肌が立った圧迫感を思い出した。館から駐屯地へ直接向かった為、砦の異変には気がつかなかった。
ラファエルはラファエルで、原因不明の体調不良に悩まされ、ローザリンデへの連絡を後回しするという失態を犯した。通常であれば、有能な副団長からは考えられない大ポカである。
駐屯地に着いたローザリンデは尋常でない兵士らの失調と、飛ぶ事すら出来ない竜に衝撃を受けた。
それを北方軍に気取られないよう神経を注がねばならなかった。隊を組み直し、偵察を徹底し、小競合い程度に収めた。
どう撤退するか頭を悩ませていたのだが、日が経つにつれ、兵士らの顔色が良くなり、竜の羽ばたきが力強くなってきた。翼に込められる魔力量も増えた頃、いきなり竜が騎士の制止を振り切って飛ぼうと暴れ出したのだ。
絆を結んだ竜騎士を攻撃しかねない程の殺気を纏う事態に、駐屯地は大混乱に陥った。
そこを北方軍に付け入られなかったのは幸運だったが、ローザリンデは攻撃がない事を疑問に思いながらも、場を収める事を優先した。けたたましく声を上げる竜の眼が真紅に染まっている事に、ローザリンデは気づいた。それは、ブラッドの身に命に関わる危機が迫っている事を示していた。
「グリューンッ!!」
ローザリンデが名を呼ぶと、彼女の騎竜はすぐさま『主』の意図を悟った。
グリューンは空に飛び上がり、鋭い咆哮を上げた。絆を結んだだけでなく、主と認めたローザリンデの、竜達を鎮めよとの望みである。
辺境軍すべての竜の頭領であるグリューンのひと吼えである。混乱していた竜達の動きが、ぴたりと止まった。
竜達が鎮まったのを確認する間もなく、ローザリンデはグリューンを駆って砦へ向かったのだ。
竜に囲まれていたブラッドが弾かれて落下した瞬間は、内臓全部を鷲掴みされたように全身が竦んだ。胆が冷えるとはこの事かと思った。
間に合ったのは、まさに奇跡。小柄な躰が自分の腕に落ちて来たのを抱き締めた時、ローザリンデは生まれて初めて神に感謝した。
しかし、未だ諸々の危機である事に変わりはない。
「矢を射った者は、とっくに砦におらんだろう」
ローザリンデは、ラファエルの問いとは違う答えを返した。
「前線から私が抜けた事も知られただろう。急ぎ、私は前線に戻る。ラファエル、ブラッドを中心に砦内の井戸の確認を。くれぐれもブラッドの身の安全を中心に。ユリウス先生には申し訳ないが、今暫く治療を頼みます」
ユリウスは深く頷いた。彼に否は無い。
「さて、出立する前に可愛い顔を見に行こう」
立ち上がったローザリンデの顔は蕩けていた。団長の珍しい表情に驚きながらも顔には出さず、ラファエルとユリウスは彼女の後に続いた。
その頃、ブラッド、ジークムント、アルベルトの三人は、宿舎の井戸の前にいた。
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