70 / 156
第70話
ジークムントが井戸の蓋を取ると、中から黒い靄が一気に吹き出した。靄は不吉な気を纏い、井戸を覗き込んでいるジークムントに絡みつこうと触手を伸ばしてくる。
ブラッドは咄嗟にジークムントの服を掴んで引いた。
アルベルトは蒼白になったブラッドの様子に尋常でないないものを感じた。事実、ジークムントが蓋を取った瞬間、井戸から通常では考えられない冷気を頬に感じた。
ジークムントに取っては代わり映えのない、滑車を吊るした雨避けの屋根のある、いつもの井戸だ。
「特に変わったところは無さそうだが?」
首を傾げてジークムントが呟いた。
しかし、アルベルトは違った。ジークムントの隣で覗き込んだ井戸から吹き上がる冷気に触れた途端、くらりと目眩を覚え、脱力し、膝をつきそうになった。
この感覚をアルベルトは経験していた。
……そうだ。あの鱗に触った時の感覚だ。
背中を冷たい汗が流れる気持ちの悪さ。
「汚れているようにも見えないし、気のせいじゃないのか?」
暢気に言うジークムントに黒い触手が絡め取ろうと伸ばしていた。だが、躰に触れる寸前に何かに弾かれて先が霧散した。触手は何度も触れようとしては弾かれ、霧散する、を繰り返した。
触手はアルベルトにもその手を伸ばした。だが、ジークムントの側にいるお陰か、同じように弾かれた。
「本当に井戸から不吉な靄が出ているのが見えるんです。それに、信じて貰えないと思いますが、竜が『呪詛』されていると訴えてきたんです。本当なんです」
ブラッドは必死に二人に訴えた。
「お前が嘘をつくなんて思ってやしないよ。ごめんな。俺って鈍いからさぁ」
「俺は信じるよ」
アルベルトがブラッドの肩に手を置いて言った。見上げると、日射しの加減か、顔色が悪いように見えた。
「アルさん……」
「俺も、何だか井戸が気持ち悪く感じる。ジーク、調べてみよう。それで何も無ければ他に原因がある。懸念は一つずつ潰していこう」
そうだな、と頷いてジークムントはブラッドに向き直った。
「砦内の井戸を全部調べよう」
「ジークさん、ありがとうございますっ」
「まだ、礼は早いぞ。全部調べてからだ」
荒唐無稽な自分の言葉を信じてくれた。それだけでもブラッドの重苦しかった心が、少し軽くなった。
表情が明るくなったブラッドの頭をくしゃりと撫で、ジークムントは井戸の中に降りる準備を始めた。
そこへローザリンデがラファエルとユリウスを伴って現れた。
倉庫から持って来た梯子を井戸に下ろしている間に、ブラッドはカンテラに灯を点す為に厨房に走った。
灯りの点いたカンテラをブラッドから受け取り梯子を降りると、井戸の中は肌寒いくらいひんやりしていた。豊富な地下水脈に恵まれている場所柄、井戸はそんなに深くなく、澄んだ水を湛えていた。
井戸は大人二人分程の深さで、水はジークムントの腰辺りまであった。水が服に染み込むと、痺れるくらの冷たさにジークムントは身震いをした。
最初、ブラッドが井戸に入ると言い出し、五人は慌てて止めた。提案したのは自分だし、小柄な方が中で作業がしやすいと主張したのだが、全力で止めて正解だった。
鍛えた自分だから動けるのだ。ブラッドなど、数瞬で低体温に陥り意識を失うだろう。
「ジーク、何かあるか?」
上からアルベルトが声を掛けた。
心配そうな表情のブラッドを挟むようにアルベルトとラファエルが覗き込んでいた。ジークムントは大丈夫だという意味で親指を立て、カンテラで周囲を照らした。
規則的に石の積まれた壁に異変はない。ゆっくりと自分の周囲から動く範囲を広げていく。程なくして、爪先にコツン、と当たる物があった。
井戸は定期的に井戸浚いをする。管理の杜撰な井戸はすぐに使用不可能となってしまうからだ。壁に黴や苔が生えておらず、水面に葉っぱ一枚浮いていないのは、きちんと管理されている証拠だ。
カンテラを梯子に掛け、ジークムントは足元を手で探ってみた。指先に固い物が触れ、持ち上げてみた。黒い小さな壺だった。木製の蓋で栓がされてあり、ずっしりと重かった。
他に無いか探ってみると、もう一つあった。
壺を二つ抱えて井戸から出ると、ユリウスを除く四人の顔が蒼白となって強張った。豪胆なローザリンデでさえ、嫌悪の表情でジークムントの手の中の壺を見ていた。
およそ、この世の負と闇を集めたような、光りさえ吸い取るような漆黒の靄が壺に纏いついているのがブラッドには見えた。ローザリンデらは見えてはいないが、壺から発せられる負の気に当てられ、気持ち悪さと脱力感に襲われた。
「ジーク、それを持っていて平気なのか…?」
ローザリンデが信じられない物を見るようにジークムントを見た。
「俺には普通の壺に見えますが……」
ジークムントには、何が問題なのかさっぱり分からなかった。それよりも、今は、冷えた躰に暖かな日差しがありがたかった。
壺の一つを掲げてみるが、全く、なんの気配も感じられない。ひっくり返すと、底に複雑に彫られた紋様があった。
「これは……?」
「見せて下さい」
ユリウスがジークムントの手から壺を一つ取り上げた。大金貨くらいの大きさの円に、五芒星とその周りに複雑な記号が囲うように配置されていた。
「この記号みたいなものは、古代文字に似ているようですが……、文献を調べてみないと、何とも言えませんね……」
「だが、不調の原因は、その壺なのだろう?」
ローザリンデが問うと、皆がブラッドを見た。誰よりも蒼白な顔でブラッドは頷いて、ローザリンデを見返した。
この壺が呪詛の核だ。
ブラッドは確信した。手足の先から冷えて躰が脱力していく感じ。生命力を吸い取られる感覚に嘔吐感が込み上げる。
壺を地面に置いて、ジークムントは蓋を小刀で壊した。逆さにして中の物を出す。
すると、砕いた黒曜石のような物が、ざらざらと音を立てて落ちた。
「これは……っ」
アルベルトとジークムントが声を上げて互いをみた。
ジークムントは懐から黒い石を取り出して、掌に乗せてローザリンデに見せた。
アルベルトが不覚を取る一端となった、黒い竜の鱗だった。壺の中身は、その鱗と同じ物だった。
ともだちにシェアしよう!