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第71話
ローザリンデは予定を変更して、一緒に残りの井戸を捜索する事にした。表面には出していないが、自分の所有する砦で呪詛が行われた事に激怒していた。
次は厨房側の井戸に向かった。
ここでもジークムントが井戸に入る事になった。壺に触っても平気だからだ。医師のユリウスは論外である。
ここの井戸からは、同じような壺が三つ見つかった。
残りは厩舎と竜舎の井戸だ。
厩舎を通り過ぎ、竜舎に近づいた時、少年の怒鳴り声が聞こえてきた。
「……なんて、おかしいだろうっ。 何か、変な物、食べさせたんじゃないのか?!」
薄茶色の髪の少年が、数人の少年らに詰め寄っていた。
「カール?」
ジークムントが少年の名まえを呼んだ。
ブラッドは竜に近づくなとウォーレンに言われたのを思い出し、崩れた竜舎の陰で足を止めた。その肩をローザリンデが抱いて、騒ぎとなっている現場に向かった。
大ざっぱに分けられた、いくつかの瓦礫の山に囲まれるように、竜達が臥していた。翼は力無く垂れ、鱗は薄汚れていた。
その前でカールが調教師見習いの少年らに詰め寄っていたのだ。
「どうした、カール。具合の悪い竜の前で大声を出すな。竜騎士候補であれば、それくらい基本だぞ」
ラファエルが叱責した。
「服団長……、でも、…団長っ?!」
カールは慌てて駆け寄り、ローザリンデに敬礼をした。
突然のローザリンデの登場に、見習いの少年達も慌てた。彼らの上司であるウォーレンは見当たらない。どうしていいか分からず、ひと塊になってローザリンデを見た少年らは、彼女に肩を抱かれて立っているブラックに気づいた途端、険しい表情になった。
彼らは憎々しげにブラッドを睨んだ。ブラッドはそれに気づかず、竜に小走りに駆け寄った。制止されたように思ったが、止まれなかった。
ブラッドに気がついた竜が頭を上げようとするが、力が入らないのか、顎が少し地面から浮いただけだった。弱々しい呼吸を繰り返し、すぐに臥してしまった。
自分に向けられた眼に光が無く、全く生命力が感じられない。命の灯が今にも消えそうだ。
「一体…何が……」
ブラッドはカールを振り向いた。カールは頭を横に振った。
「竜の食事用に果物を持って来たら……」
「お前が暴れさせたからだろうっ」
調教師見習いの少年の一人が叫んだ。
「具合の悪い竜を大暴れさせた、お前が悪いんじゃないか!」
少年の指摘に、ブラッドの胸が刃を突き立てられたように痛んだ。一因は彼らにもあった。だが、自分が竜舎に行かなければ暴走しなかったかもしれない……。
唇を噛んで俯いたブラッドの視界の隅に、竜用の水槽から黒い靄が立ち上っているのが入った。
「その水は……っ」
顔色の変わったブラッドの言葉にカール以外が反応した。
「井戸の水を使ったのか?!」
ラファエルが少年らを見た。
水は河から汲んできた物を使用するよう指示を出していた。それは人間用だけだなく、竜や馬、家畜にまで徹底させていた筈だった。
「だって、井戸があるのに……、わざわざ河から汲んでくるなんて、非効率的だし……」
「大戯け者がっ!!」
ラファエルの怒声にカールは眼を見開いて驚愕した。
戦闘中でさえ声を荒げたりせず、冷静沈着に剣を振るうラファエルの怒声に、何事かと人が集まった。
「君らは竜の調教師失格だ。己が労力を惜しみ、竜を失調させるなどとんでもない。調教の中心は、戦闘用に特化させる事だ。躾てやってる気持ちでいるのなら、とんだ思い違いも甚だしい!」
ラファエルの剣幕に少年らは怯えたが、年長の少年がブラッドを指差した。
「もとはと言えば、あいつが無関係のくせに出しゃばったりするからっ」
「彼は君達より、ずっと良く竜の世話をしてくれていたよ」
ラファエルの後ろから、騎士の一人が進み出た。
「竜の躰の汚れを丁寧に拭き取ってくれて、爪を手入れして磨いて、鬣を梳いてくれた。竜に与える食べ物も気を使ってくれて、少しでも傷んだ物を省いてくれていた」
彼は、ジークムントとアルベルトと一緒にユリウスの書籍を運んで来た竜騎士だった。
「竜舎の掃除も塵一つ落ちていなかったし、道具の扱いも丁寧で、一つ一つ大事に仕舞っていた。その彼が竜に仇なすなど、あり得ない!」
『誠実であり続ければ、いつか、誰かが認めてくれる』
ブラッドはおじいちゃん神官……クレーメンス老神官の言葉を思い出した。
孤児院の子供達は親がいないという事だけで、偏見や理不尽な目にあう事もしばしばあった。それに対し、クレーメンス老神官は卑屈になる必要はない。孤児院の子供達は、皆、神官の子供であり、太陽神の子供である、と。
また、人は己の鏡である。善意には善意が、悪意には悪意が返ってくる。すべての人が子供らの敵ではないのだ。神殿の教えを胸に、一人一人が小さな太陽となって生きれば、誰かがその小さな光りに気がついてくれるだろう。
ブラッドは胸の奥が熱くなり、何かが込み上げてきた。その感情が何なのか分からなかったが、瀕死の竜を目の前に、ブラッドはこくりと息を飲んで覚悟を決めた。
足元には、まだ、竜が破壊した竜舎の細かな瓦礫が散乱していた。ブラッドは、その中にあった窓硝子の破片を拾った。
ふっと息を吸い、尖った先を左の掌に走らせた。
「ブラッド?!」
カールが叫んだ。
「何やってるんだよっ!!」
駆け寄ろうとしたカールを制し、ブラッドは頬を強張らせて微笑んだ。左手からは血が溢れ出し、足元に血溜まりが出来た。
痛みより、熱さが強かった。
溢れる血を両手に溜め、竜の鼻先に差し出した。離れた所にいる騎士らにも分かる血臭に、竜が弱々しく頭を上げ、濁った眼でブラッドを見た。
「えーと、美味しくはないと思うけど、嘗めてくれる?」
竜はじっとブラッドの瞳を見つめ、ひくひくと鼻を動かし、緩慢な動作で掌の血に舌を伸ばした。生温い鼻息が掌にかかった。
竜の舌が血に触れようとした時だった。
「何をやっているっ!!」
怒声とともにブラッドの左腕が捩り上げられた。ウォーレンが憤怒の形相でブラッドを見下ろしていた。
ブラッドに気を取られ、誰もウォーレンに気がつかなかった。
「お前は竜に近づくなと言っただろう。何を気持ちの悪い事をしているんだ」
手首を指が食い込む程掴まれ、ブラッド苦痛に顔を歪ませた。
「ウォーレン殿、その手を離していただこう」
行儀悪く舌打ちをし、ローザリンデはブラッドの腕を捩り上げているウォーレンの手首を掴んだ。調教師という厳しい仕事柄か、意外にも服の下の腕は固く鍛えられていた。
「伯爵様、私は竜の調教師です。竜に関する事は私の指示に従って貰いたい」
ウォーレンの不遜な態度に、ラファエルは眉を顰めた。
「竜に関して全責任を負うのは私です。このような得体の知れない者を竜に近づける訳にはいきません」
「…あなたは、随分とブラッド敵視しているように思えるが」
「私には調教師としての矜持があります。竜を暴走させるような危険な人物を遠ざけるのは、当たり前の事でしょう」
手首を掴んでいるウォーレンが更に力が込めた。骨が軋む音がし、ブラッドは思わず痛みに声を漏らした。
ローザリンデを始め、竜騎士らから怒気が上がった。それに怯まず、ローザリンデと真っ向から対峙しているウォーレンに、ラファエルは密かに感心した。
(頑固も極まれり、だな…)
ブラッドの掌から溢れ出ていた血が手首を掴んでいるウォーレンの手にかかる寸前、まるで汚物を投げ棄てるように腕を振り離した。小柄な躰は勢いに負けて体勢を崩し、そのまま尻をついた。
「調教師見習いでもない部外者がいるのは、目障りだ。仕事の邪魔だ」
「その仕事だが、私の指示が徹底されていないようだが」
ローザリンデはウォーレンの腕を掴んだままだ。
「私は井戸の使用を禁じた筈だ」
「…はっきりした理由もない指図は、仕事上の混乱を招きます。効率も悪い。迷惑ですな」
「そうか」
ローザリンデはウォーレンから手を離し、座り込んでいたブラッドを支えて立たせた。小柄な躰が小さく震えていた。
「竜の世話は我らでしよう。今までご苦労。そなたらは城へ帰るが良かろう」
「勝手ですな。手助けを要求してきたのは、貴女方ではないですか」
ローザリンデが、カッと眼を見開いた。
「調教師ごときが、大層な口をきくでないっ!!」
腰の大剣を鞘ごと抜いて地面に突き立て、ローザリンデが獅子のごとく吼えた。
ラファエル以外の騎士らが、自分に向けられた訳でもないのに首を竦めた。免疫の無い調教師見習いの少年らは蒼白になって、ガタガタ震え上がった。
「私が何も知らぬと思うて、ようも勝手をぬかすものよの。竜が暴走した原因の一端が、そなたらにもあった事は知っておるわ!」
翠の瞳の色が濃くなり、金の環が輝いた。
「国境の最前線は、そなたらが思うておる程生温い処ではない。不和の種は要らぬ。その小僧らを連れて、疾くと去ぬるが良い!」
ウォーレンは何かを言おうと口を動かしたが、結局、何も言わず少年らに目配せをし、足音も荒く立ち去った。
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