72 / 156

第72話

肩を怒らせて立ち去るウォーレンの後ろ姿を睨めつけ、ローザリンデはラファエルに小さく合図をした。 「丁重にお見送りいたせ」 「承りました」 ラファエルは頷き、大股でウォーレンらの後を追った。 「ずぐに手当てします」 ブラッドは弱々しく首を横に振った。左手を胸に当てて右手を重ねてユリウスから隠した。 「先生…、いけません……」 「分かっています。『私』は触ったら駄目なんですよね」 「はい……」 「カール、水と清潔な布を。ジーク、手伝ってやってくれ。他の者は持ち場に戻れ」 ローザリンデの指示で二人が小走りに行き、他の騎士らはブラッドを気にかけながらも己の持ち場に戻った。アルベルトは転がっていた桶をひっくり返し、ブラッドを座らせた。 「何て無茶を……。掌には指を動かす神経が集中しているんだぞ……」 アルベルトはブラッドの左の上腕をきつく握った。止血の為だ。 「ごめんなさい…」 自分がやろうとした事は勢いに任せたもので、結局、周りに迷惑をかけただけ。血を与えたところで、竜が回復するとは限らないのに。 ブラッドは俯いて眼を閉じた。 必死の想いでかき集めた勇気が急速に萎んでしまった。 「ブラッド、手をもう少し上げて」 握り込んだ手からは、まだ、血が滴り落ちていた。 「はい…」 そこへ、なみなみと水を張った盥を持ったジークムントと、白い布を抱えたカールが戻って来た。 「大丈夫? 顔色が悪いよ?」 布を抱えたまま、カールがブラッドの顔を覗き込んだ。 「手当ては私がしよう。先生は薬の用意をして貰えませんか」 ローザリンデがユリウスに振り向いた。 「分かりました」 「カールは休ませる部屋の用意を」 「はい」 ジークムントは残りの壺を回収する為に井戸に潜り、アルベルトは布を裂いて包帯を作った。ローザリンデが濡らした布でブラッドの両手を清めると、あっという間に盥の水が朱に染まった。 出血は収まりつつあるものの、ぱっくり割れた傷口からは、まだ、血が滲み出ていた。布が触れると痛みに声が漏れそうになったが、ブラッドは唇を噛んで堪えた。 「痛むのであろう?」 「…いえ……」 労れると居たたまれない。勝手をした自分が悪いのに、皆に迷惑をかけた上、伯爵様の手を煩わせている。恥ずかしい…、消えてしまいたい。 「ご迷惑をかけて…、本当に申し訳ありません……」 手際よく包帯を巻き終えたローザリンデは、気落ちしているブラッドの手に自分の手を重ねた。 「私の方こそ、済まなかった」 「伯爵様?」 「長である私が、もっと早く呪詛に気がつかねばならなかったのだ。ブラッドには辛い想いをさせてしまったな。赦して欲しい」 上流階級の人に、庶民の…しかも孤児の自分に頭を下げられ、ブラッドは真っ赤になって慌てた。 「とっ、とんでもないですっ。ぼくの方こそ混乱させただけで、何も解決してない……っ」 鼻の奥がツンとして、眼の奥が熱くなった。 (泣くな。泣く資格なんかない。ぼくは自分勝手をしただけだから……) 「そなたが『竜の愛し子』である事は、初めて会うた時から知っておるよ」 はっとして、ブラッドは顔を上げた。 鋭かった翠の瞳が、今は優しい光を湛えてブラッドを見返していた。卵を抱いていた時のグリューンの慈愛に満ちた眼と同じだった。 「私は、古の竜人族の末裔ぞ?」 重ねた手に、そっと力を込めた。 「ブラッド、相手に何かをして遣りたいという気持ちは尊い。しかし、それで本人が傷ついてしまっては本末転倒だ。我らはブラッドが傷つく事も辛いし、心が痛む。どうか、これ以上傷を作ってくれるな」 「伯爵様……」 自分には、そんな暖かな言葉をかけてもらえるような資格なんかない。ただの我儘なのに。 「自分自信を労る事も、相手への思い遣りだ」 思い遣り……。 ブラッドはローザリンデの言葉を噛み締めた。 そこへ、ユリウスが薬湯を持って来た。 「飲んで下さい。増血と痛み止めです」 アルベルトが口を押さえた。自分に処方された薬湯と同じ匂いがしたからだ。 飲みやすいよう温められていた薬湯を一口含んだ。案の定、ブラッドの顔が微妙に歪んだ。 苦い……。 アルベルトとローザリンデはブラッドに同情した。 砦の性質上、宿舎には客室はないが、予備の空き部屋がいくつかあった。 カールはユリウスが薬を用意している間、奥の空室を大急ぎで掃除をしていた。窓を全開にして埃を払い、寝台に寝具を敷き、毛布を畳んで置いた。埃が静まったところで椅子と机を運び入れ、水差しを置いてひと息つく。 ひと通りの作業を終えると、ブラッドの鮮血を思い出し、ぶるっと背中を震わせた。カールにはブラッドの行為の意味は分からなかったが、彼が怪我をするのは嫌だなと思った。 最初は、自分より後に来たくせに、自分より早く竜に馴染んだ生意気な奴だと思っていた。 だが、少しの時間しか一緒にいないが、ブラッドの側の心地好さに気づいた。人当たりが柔らかく、前髪から覗く大きな瞳が印象的で、側に寄ると、何だかいい匂いがした。 「あんなに深く切って、大丈夫なのかな…?」 支度が整った部屋を出ると、廊下にラファエルが立っていた。 「ふ、副団長?」 「カール、話がある」 「はいっ」 踵を返したラファエルの後を小走りにカールは続いた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 薬湯に入れておいた鎮静効果の薬草が効いて、ブラッドは深く眠っていた。浅く静かだが、規則正しい寝息を確認し、アルベルトは音を立てずに部屋を出た。 陽が翳り始めた中庭で、ローザリンデ、ジークムント、ユリウスの三人が壺を取り囲んでいた。壺は、全部で六個あった。固めて置いた事による相乗効果なのか、壺から発せられる負の気が濃密なものになっていた。 そこへアルベルトとラファエルが合流し、冷たく重い空気に眉を顰めた。 「これで呪詛は止まったと思うか?」 ローザリンデがジークムントを見た。 「うーん、俺には全く普通の壺にしか見えないので、何とも……」 「止まったのなら、この気持ち悪さも消えると思うのですが」 アルベルトは眉間の皺を深くした。 「先生はどう思う?」 ローザリンデの問いに、ユリウスは首を傾げた。 「私は、医療が専門なんですけど……」 「お前、竜について調べまくっているじゃないか。何かしら、分からんのか」 「私が研究しているのは、竜人族についてです。呪詛とかは専門外っ」 ラファエルが咎めるように言うと、ユリウスは傷ついた顔をして抗議した。 「同じだろうが。何か知恵を出せ。さぁ、出せ、早く」 出せと言われて簡単に出せるものではない。 「蓋を開けるまで、こんな気配は感じませんでしたが…」 アルベルトが呟いた。 ブラッドは最初から気味悪そうにしていたが、自分は蓋を開けるまで井戸は平気だった。 「ふむ……、蓋か……」 何の変哲もない、木製の円状の蓋である。 ジークムントが蓋を持って来た。 「桂の木です」 「桂の木……」 ジークムントから蓋を取り、ユリウスは角度を変えたり、ひっくり返したりして見た。 「桂…、桂…、桂……」 何かが頭の隅に引っ掛かっている。喉の奥の魚の小骨のように、取れそうで取れない状態に似ている。 「うーん、うーん、うーん、うーん……」 「何だ。腹が痛いのなら、遠慮しないで便所へ行け」 「違うっ」 「唸っているから腹でも下してのかと」 「しーてーいーまーせーんっ! もうっ、何か思い出しかけていたのにっ」 「悪かったな。…その蓋で頭を叩いたら思い出すかもしれないぞ」 「しませんっ」 「いちゃついているところを悪いが、食堂へ行くぞ。腹が減った」 ローザリンデが飽きれ顔でラファエルとユリウスに言った。 「してませんっ」 「そうですね」 ユリウス抗議し、ラファエルは同意した。 気がつくと、陽はとっぷりと暮れており、風が冷たくなってきた。空気には湿気が含まれ、ひと雨きそうな空模様になっていた。 夕暮れに降り出した雨は、深夜になって激しさを増した。 燭台の揺れる灯りの元、溜まっていた書類を処理していると、ローザリンデの執務室の扉が叩かれた。 「ラファエルです。団長に客人です」 「入れ」 扉が開けられ、蜂蜜色の髪の副団長の背後に、黒髪の長身の人物が立っていた。 ローザリンデがニヤリと笑った。 「遅かったではないか」 頭からずぶ濡れのレオンだった。

ともだちにシェアしよう!