73 / 149

第73話

ふと、ブラッドは喉の渇きを覚えて目が覚めた。周囲の暗さに、咄嗟に何度か瞬いて左右を見た。 いつの間にか夜になっていたようだ。激しい雨が窓を叩きつけている。 「起きたのか」 唐突に横から低い声がし、躰が跳ねた。 「驚かしたな、悪い悪い」 笑い声と、カチカチと固い物を打つ音がし、淡い灯りが点った。燭台の灯りに照らされた顔に、ブラッドは大きく眼を見開いた。 「レオンッ?!」 喉が渇いていたためか、言葉を続けようとして咳き込んだ。 「大丈夫か? 水を飲むといい」 レオンは寝台に腰を下ろし、ブラッドを軽々と持ち上げて自分の膝に座らせた。傍の箪笥から水の入った杯を取り、ブラッドの薄く開いた口許に当てた。 コクコクと飲み干すと、頭の中が大分すっきりした。すると、レオンに行き先を言ってなかった事を思い出した。 「どうして、ここに居るって分かったの?」 「ユリウス医師が迎えに来たのだろう? ならば、砦しかないからな。結界の中に入った時は焦ったが」 言いながら、抱き込んだブラッドの左手をそっと持ち上げた。 「痛むか?」 ブラッドは首を横に振った。薬の効果か、熱くはあるが痛みは感じなかった。 レオンが無言で包帯をほどき始めたが、ブラッドは止めなかった。傷口が空気に晒され、疼痛が主張し始めた。よく見えるよう手を広げると、傷口からじわり、と血が滲み出た。 その手に、レオンが自分の舌を這わせた。 「……っっ……」 思いの外、熱いレオンの舌にブラッドは背中を震わせた。それは、激痛に耐えるというより、何やら甘美な痛みに、全身の肌が粟立つような初めての感覚だった。 躰を硬くしたブラッドに構わず、レオンは無心に傷口に舌を這わせ、滲み出る血を嘗め取り続けた。熱い舌と息に、ブラッドは背をレオンに預けて眼を閉じた。そうすると、今度は掌を嘗める水音が耳の奥を擽る。 暫くの間、ブラッドはレオンの腕の中で身を硬くして、なすがままになっていた。 ブラッドの息が熱くなりかけた頃、漸くレオンは掌に口接けをひとつ落として唇を離した。 滲んでいた血は止まっていた。 「……レオンの傷はすぐに塞がったのに、どうして、ぼくは治らないの? 本当は、ぼくは竜人族じゃないんじゃないの?」 もしかしたら、自分はレオンの捜し人じゃないかもしれない。そう考えると、心が凍る恐怖を覚えた。 「ブラッドは間違いなく、竜人族だよ」 「だったらっ……」 「『竜氣』の使い方を知らないだけだ」 「りゅうき…?」 首を捻って見上げたブラッドの額に、レオンは唇を軽く押し当てた。 「額の俺の鱗は…、竜の鱗は『竜氣』の塊だ。普通の人間がつけたら『氣』の力に負けて、良くて発狂、悪くすれば全身が崩れて肉の塊になる」 その様を想像し、ブラッドはソッとした。 「『氣』の使い方を覚えるか?」 「覚えた方がいい?」 「そうだな。『竜氣』は魔力の塊でもある。竜人族が体内に抱えている魔力の量は膨大だ。俺達はその魔力を制御する事で竜身に変化する事も出来るし、この程度の傷を治す事など簡単に出来るようになる」 「ぼくも、竜になれるの?!」 「完全に制御出来れば、可能だ。やってみるか?」 ブラッドは何度も大きく頷いた。 レオンはブラッドを向かい合わせに自分を跨ぐように座らせ、互いに額をくっつけさせた。 目の前の蒼い宝石のような瞳に、ブラッドの心臓が不規則に鼓動を打つ。視線が外せず、狼狽えてしまう。 レオンは苦笑した。 「眼を閉じて、額に意識を集中して…」 「はっ、はいっ…」 きゅっと、眼を閉じる。そうすると、レオンの体温が額から全身に広がっていくように感じられた。 「遠くを見る時のように眼を凝らして、意識を額に向けたままに」 「うん……」 眼を閉じているのに、眼を凝らす? 難しいな、と思いながらも瞼を閉じたまま眼だけを動かしてみる。暫くは真っ暗なままだったが、闇の中に小さな金色の淡い光がポツポツと見える事に気がついた。砂粒程だった光が徐々に膨らみ、小さな蛍の群となった。 これ…どっかで見た事ある……。あ、グリューンが卵に子守唄を唄ってる時に見た、雪みたい降ってた光だ……。 その光が、不意に集まってひと塊になった。それでも、夜空の星程度の大きさだ。 何だか、暖かい光だ…。 「何か見えたか?」 「うん…。星みたいな光が見える……」 「それが、俺の鱗の核だ」 「レオンの、鱗……!」 レオンの一部が自分の中にある。驚きよりも、嬉しさが込み上げた。 その星が中心に光を残しながら方々に散り始めた。 「あっ……」 散ってしまう! 「大丈夫だ。慌てなくていい。その光のひとつをどれでもいいから追ってみろ」 心を落ち着けて、伸びていく光の中で一番強く光っている筋を追う。 「そうだ。上手いぞ。光が躰の輪郭を描くように想像して追ってみろ。全身に行き渡るように…、そう、上手だ」 額から伸びた光が肩から指先へ、胸、腹を通り足先へと進み、折り返して額へと戻ってきた。 何だろう。……ぽかぽかする……。 躰の奥に大きな光の塊が出来た。そこから溶けた鉄のような熱が流れ出されたように熱くなり、汗ばむ程に躰が火照ってきた。 額にじんわりと噴き出した汗が流れ落ちた。 思わず溢れた吐息も熱い。 「その光を今度は左手に集めてみろ」 左手に光が集まるのを想像してみる。レオンが持ち上げたブラッドの左手の掌から、止まっていた筈の血が溢れ出た。眼を閉じていたブラッドは気がつかないで、更に左手に光を集めた。 熱い……っ。 「熱いよ、レオン…」 「それで良い。今度はその光が左手を覆うように想像して」 左手に光の手袋を嵌めているのを想像してみた。すると、眼を閉じていても分かる程に左手が輝いた。 思わず眼を開けて自分の手を見る。 レオンが額を離しても光は消えず、傷口に集まり、じくじくと滲み出ていた血が止まった。 ぱっくり開いていた痛々しい傷口が、端から新しい皮膚が盛り上がり、ゆっくりと塞がっていく。塊だった光が水のようにうねり、傷口を撫でる度に赤色が薄くなる。 役目を終えたかのように光が無くなると、掌には、薄く赤い細い線が残されていた。確かにここに傷があったと主張するように……。 あんなに痛かったのに、あんなに血が溢れ出ていたのに、今は、痛みの名残りさえ無い。 「これ……、レオンが治したの…?」 「ブラッドが自分で治したんだよ」 「本当に? ぼくが?」 くすりと笑って、レオンはブラッドの掌に軽い音を立てて口接けた。ブラッドは熟れた果実のように真っ赤になった。 「初めてにしちゃ、上出来だ」 「ぼく…、上手に出来た?」 「ああ。もう少し訓練したら竜になれるぞ」 「ぼくが……、竜に…?! レオンは? どんな竜になるの?」 「今度、見せてやろう」 「約束だよっ!」 「約束だ。…さあ、まずは躰を休めろ。疲れただろう」 言われて、漸く躰が怠く重い事に気がついた。自覚すると、躰を起こしているのも辛い。頭を撫でられると、誘われるようにレオンの胸に凭れかかった。 一度瞼を閉じると、もう、開ける事が出来ない。 「眠いだろう。このまま寝て良いんだぞ」 「ん……」 長い指が、優しくブラッドの髪を梳く。それが、堪らなく心地好い。 もっと、話をしたい……。でも、眠い……。 「お願い……、どこ……行かな……」 完全に寝入った小柄な躰を抱え直し、レオンはブラッドの薄く開いた唇に自分の唇を重ねた。 朝までの、レオンの苦行の始まりである。

ともだちにシェアしよう!