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第74話

夜明け前に雨は止んでいた。 陽が昇るにつれ霧が薄れていき、木々が纏っている水滴に朝陽が反射し、森全体が輝き始めた。 俯せて眠っていたブラッドは、自分が枕より固いが、暖かな温もりに抱かれている事に気がついた。うっすらと眼を開けると、精悍だが端正な容貌の寝顔があった。 眼の下に僅かに隈をこしらえ、左腕でブラッドの肩を抱え込むようにしてレオンが眠っていた。 (わ…、睫毛、長い……) 濃くて長い睫毛は、ぴくりとも動かない。頬にかかっている数本の髪の毛をそっと払った。 すると、レオンの眉が寄せられ、薄く眼が開いた。 「ご、ごめんね。起こしちゃった……」 何度か瞬きし、レオンはブラッドの前髪に指を絡めた。 「レ、レオン……?」 ふっと微笑し、レオンはブラッドの頭を引き寄せ、鼻の頭に軽く音を立てて口接けをした。 「おはよう、ブラッド」 「お、おおおはようございますっ」 「気分は悪くないか? 躰は怠くないか?」 空いている手で髪を掻き上げ、レオンが訊ねた。 「う、うん。大丈夫」 寧ろ、頭も躰もすっきりしていて軽い。 ブラッドごと起き上がったレオンは、ブラッドの左手を取った。掌からは、昨夜残っていた薄い線が消えていた。傷のあった所をレオンがそっと指でなぞった。 擽ったさと、背中に甘やかな戦慄が走り、ブラッドは思わず肩を竦めて、手をレオンから引っ込めた。 これ以上側にいると心臓が保たない。ブラッドは慌てて寝台を降りた。 「も、もう大丈夫だから、ぼく、朝の支度の手伝いに行くね」 慌てると、なかなか革靴が履けない。 「あ、今、井戸が使えないんだ。洗面用の水、後で持って来るね」 「いや、俺の方で貰いに行くよ」 「そう? じゃあ、後でね」 漸く靴を履いて扉を開けようとしたブラッドは、治った掌を見た。握ったり開いたりしてみる。痛くない……。 「ブラッド、治し方を覚えたからといって、もう一度同じ事はするなよ」 「はっ、はいっ」 釘を刺され、ブラッドは背筋を伸ばして部屋を出た。 扉が閉まり、足音が遠ざかると、レオンは大きな溜め息を吐いた。 「……ヤバかった……!」 寝台が一人用と狭かったので、レオンは寝入ったブラッドを一晩中抱き抱える事となった。 深夜の雨で砦内は冷え込んだ。そのせいか、レオンはブラッドの温もりを思っていた以上に感じた。甘い寝息が首筋を刺激し、くせっ毛が頬を擽る。その上、しなやかな脚が絡みつくのだ。 もしや、眠っておらず、からかわれているのではないかと、疑いたくなるくらいだった。少し離れようかと身動ぐと、無意識だろうか、腕が胴にしがみついてきた。 嬉しいやら困るやらで、レオンは一晩中悶々とする羽目になった。 眠れたのは、雨が止む少し前くらいだった。 誰か、俺を誉めてくれ……。 うんうんと、したり顔で背中を叩きそうな人物の顔は容易に想像出来たが。 レオンの懊悩を知らず、朝の手伝いを終えたブラッドは、全壊した竜舍で茫然と立っていた。 瀕死の状態であった竜達が元気に動き回ったり、翼を力強く羽ばたかせていたのだ。その内の一頭がブラッドに気づくと、嬉しそうに声を上げて駆け寄り、次々と竜が周りに集まり出した。 竜達はブラッドの頬や頭に鼻を擦りつけたり、髪を甘噛みをしたりと、皆、成竜らしからぬ大甘え振りだ。 「どうして……」 竜の勢いに押されて尻餅をついたが、ブラッドは竜の好きにさせた。まだ、泥汚れや埃がついているが、鱗には艶が戻り、眼の輝きも強く、頬を舐める舌は健康的な赤だ。 「こらこら、お前達の大好きなブラッドが潰れてしまうぞ」 竜の群れから助け出してくれたのは、ローザリンデだった。 「伯爵様…」 「おはよう、ブラッド。気分はどうかな?」 「おはようございます。あの、昨日は心配をかけました。本当に申し訳ございません」 勢いよく頭を下げたブラッドに、ローザリンデは苦笑した。 「頭を上げてくれないか。謝らなければならないのは私の方だ。申し訳ない」 「え?」 顔を上げると、ローザリンデが自分に向かって頭を下げていた。 「伯爵様っ?! どっ……、何を……」 「そなたの血の混じった水を竜に飲ませたのだ」 頭を下げたままローザリンデが答えた。 ブラッドは息を飲んでローザリンデを見つめた。自分の血の混じった水を竜に与えたという事は、彼女は竜人族の血の効果を知っているのだ。だが、すぐに竜人族を祖に持つ辺境伯が知っているのは、当然だろうと思い至った。 そして、ローザリンデが成した事は、自分がやろうとした事を代わりにしてくれたのだ。謝られる筋ではないと思った。 「伯爵様、頭を上げて下さい。伯爵様が謝られる事では……ないです」 「しかし、そなたの稀少な血を……」 「だって、ぼくのは、勝手にやろうとしただけで……」 「ブラッド……?」 「本当は、ぼく、凄く怖かったんです。ただの思い込みで、もしかしたら、全然効果が無いかもしれないとか、竜に毒だったらどうしようとか……。確信もないのに、勝手に血をあげようとしたんです。伯爵様の騎士団の竜に対して、とても無礼な事をしようとしました。処罰を受けるのが当然なのに……」 ブラッドは無礼を承知でローザリンデの両手を握った。辺境伯で、しかも女性の手を断りもなく触れるなど、その場で無礼だと斬り捨てられても文句の言えない行為である。 しかし、今の心境を言葉にするのが難しかった。 「ありがとうございます、伯爵様」 自分の、愚かな行為だと思っていた事を肯定されたような気がした。それは、時々、存在自体を否定された自分を認めて貰えたようにも感じたのだ。 「ブラッド……」 ローザリンデはブラッドの躰を引き寄せて抱き締めた。細い躰だ。日頃、鍛えているむくつけき者共に囲まれているせいか、一層、儚く思えてしまう。 この小柄で細い躰には、長い樹齢を思わせる意思という名の大木がある。環境的に辛い想いをたくさんしてきただろうに、ブラッドの中心を支える樹は素直に上へと伸び、枝はしなやかに広がっている。 賢者を始めとする神官らの育て方だけでなく、本人の資質もあるのだろう。 「やっぱり、欲しいな」 「伯爵様?」 境遇に甘えず、才覚があり、伎倆もある。しかも、それに傲らず努力を続ける、強い意思がある。それもまた一つの才能であろう。 その上、可愛い。 あの、見た目は白皙の貴公子然とした、しかし腹黒な侯爵と好みが全く一緒なのは気に入らないが、才能ある将来有望な人材は欲しい。 (あの腹黒侯爵、神殿の孤児院の指導者が賢者殿と知っておったのだな…。孤児院出身の有能な人材を独り占めしていたな、あやつ…) 知らず、ブラッドを抱き締める腕に力が入った。 ブラッドはローザリンデに抱き締められ、レオンの時とは違った胸の高まりに赤面していた。 着飾った貴婦人とは全く異なる簡素な騎士団の制服姿であるが、ローザリンデの美しさを少しも損なっておらず、逆に彼女の魅力を引き出していた。それに、仄かに良い香りがし、柔らかい胸が押しつけられているのである。 レオンへの恋心を自覚し始め、漸く思春期を迎えたばかりであるが、ブラッドとて男の子だ。年上の女性に憧れる年頃でもある。 大人の女性の魅力にときめいても仕方ないのである……。 その様子を離れた場所からレオンが苦虫を潰した顔で眺めていた。 それにローザリンデが気がつかない筈がない。ローザリンデは少しでも長くブラッドの感触を味わう為に、レオンはブラッドの機嫌を損ねいように、どうやって間に入るか、お互いの隙を見定めていた。 「いい加減にして、朝食を食べて下さいね」 ラファエルが不毛な戦いの終焉を告げた。 「ブラッドも困っているし、解決しなくてはならない問題が山積みです」 ローザリンデの腕から解放されたブラッドは、その後、レオンの機嫌を直さねばならなかった…。

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